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枕草子

清少納言
平安時代中期1000年頃(一条天皇の御代)成立。

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第一段
「春はあけぼの」
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春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。
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(最も有名な一段。春夏秋冬を描く。段の最後の言葉は「わろし」)

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「枕草子」は日本人にとって馴染みのある古典作品です。作品的には随筆という括りにされますが、清少納言の意見や感想が綴られている「随筆」である、と考えるのは、早急です。「枕草子」には不思議さがあります。それが、人々を惹きつけてやまない魅力となっているのです。自然や人事に対して思うことを綴った章段があると思えば、特定のテーマの事物を列挙する形式の章段、また、宮廷での感想を日記風に記した章段。これらがバラバラに配置されており統一感がありません。また、表現にも不思議さがあり、四季の趣を描く「春はあけぼの」には、誰もが思いつくであろう「紅梅」も「桜」も出てこない。伝統的歌材である「白梅」、漢詩文に尊ばれる「桃」も掲げられていない。作品全体に貫く「明るさ」も不思議。清少納言が仕えた中宮定子の一門は政治的な敗北、悲運が繰り広げられていて「枕草子」は没落後の中宮定子周辺も描いている。ですが同情を誘うような表記はなく、むしろ陽気な哄笑に満ちています。
清少納言は、自由気ままで、明るい性格だったのでしょうか。

古典文学の殆どは「写本」。人々の書写の繰り返しで誤写や間違い、意図的改竄が混じる。(そういう異同を含んだ多くの写本を「異本」という。)もちろん「枕草子」のオリジナルは、今では存在していない。

清少納言が仕えた中宮定子一門は没落の道を辿る。没落しても帝の寵愛が衰えなかった証に、中宮定子は立て続けに懐妊する。999年に第一皇子敦康親王、翌年には第二皇女媄子内親王を産む。そしてその直後、中宮定子は二十四歳(二十五歳とも)の若さで夭逝する。

「枕草子」には中宮定子の死も帝の嘆きも描かれていない。ただ中宮定子が最期の日々を過ごした三条宮における端午の節句が描かれるのみである。

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第二二三段
「三条の宮におはしますころ」
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みな人の花や蝶やといそぐ日もわが心をば君ぞ知りける
この紙の端を引き破らせたまひて書かせたまへる、
いとめでたし。
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この数ヶ月後には不帰の客となる中宮定子を「いとめでたし」と書きおくる。歌意には様々な読み取り方ができる。でもなぜ「めでたし」なのか。

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昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火白き灰がちになりてわろし。
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中宮定子の死を看取ったのち、清少納言の足跡は漠として知れないという。

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