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さびしき野辺

さびしき野辺

立原道造 1914〜1939

いま だれかが 私に花の名を ささやいて行つた
私の耳に 風が それを告げた追憶の日のやうに

いま だれかが しづかに
身をおこす 私のそばに
もつれ飛ぶ ちひさい蝶らに
手をさしのべるやうに

ああ しかし と
なぜ私は いふのだらう
そのひとは 
だれでもいい と
いま だれかが とほく
私の名を 呼んでゐる……ああ しかし

私は答へない おまへ だれでもないひとに


『優しき歌』より

「立原道造」1914〜1939
東京都日本橋生まれ。13歳の折、北原白秋を訪問するなど、既に詩作への造詣を持っていた。同年、口語自由律短歌を「学友会誌」に発表、自選の詩集をまとめるなど13歳にして歌集を作り才能を発揮していた。大学は東京帝国大学工学部建築学科に入学した。卒業後、昭和12年に石本建築事務所に入所、建築と詩作の双方で才能を見せた。昭和9年(1934)夏、初めて軽井沢の信濃追分に滞在し、詩「村ぐらし」「詩は」の2篇が『四季』に掲載され文壇初登場をはたした。以来、繰り返し訪れ、音楽性豊かな多くのソネット(十四行詩)などを発表した。軽井沢においては兄事した堀辰雄、室生犀星らと交流を深めた。詩集「萱草に寄す」「暁と夕の詩」を自費刊行する。東大建築学科の卒業設計のテーマは「浅間山麓に位する芸術家コロニーの建築群」であった。昭和14年、第一回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日午前2時20分、結核のため24歳で没した。立原道造のやさしい詩風には今日でも共感する人は多い。

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