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日記:パウロのお話を聞いていたら親鸞が現れた:「キリスト教思想への招待」第三章彼らは何から救われたのか

第三章、彼らは何から救われたのか、で親鸞への記述が出てきました。

親鸞が登場したのは、キリスト教が古代地中海領域で広まった理由を解説した流れの中です。

理由としては、古代宗教〜それまで社会の支配システムや文化装置などに組み込まれ、生活を絡め取ってきた、端的に言うと、ことあるごとに時間やお金を取られた〜からの脱却を意味したから、ということでした。

そして現世的な価値観の土俵での努力(時間とお金)を必要とせず、此岸をこえた彼岸での絶対的救済を真剣に考えれば、必然的に他力本願に行き着くということ。

そこに行き着いたのが、紀元後すぐの西ではパウロであり、それから約1200年後の東では親鸞であった、という流れでした。

パウロがどうしても「パウロ流キリスト教を信じるならば」と党派心から抜け出せないのに対し、ひたすら「弥陀の本願」と言い続けた親鸞を比較した簡単な記述もありますが、まずは次のように結論づけています。

やはり、救済というものを絶対他者の側から贈られるものだ、と言い続けた点において、この二人が東西の双璧である点に変わりはない。

「キリスト教思想への招待」田川健三

この次の段でも親鸞に関わる話が出てきそうなので、とりあえず読み進めます。

親鸞の他力思想は安冨歩さんの本を読むようになってから興味が出てきたことのの1つで、いずれちゃんと知りたいと考えていました。

田川健三さんの著作を読んでいるのも安冨さんの影響なので、親鸞が出てきても不思議ではありません。

あちこちで聞き齧りながら、フィールドを彷徨い歩き、木の棒で地面を耕しているような読書です。勉強というよりは、遊びのようなものだなあと思います。

とりあえず親鸞さんの衣が岩の向こうに見えたので、キリスト教世界で遊んでいるのに知ってる人に出会えた!という気持ちです。その袖を掴みに行こうと思います。

今日はおやすみなさい。

(日記:2022年12月18日)



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