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吉田松陰[2]/山岡荘八 著  読書感想文②

前回記事↓


野山獄に投獄された虎次郎(松陰)
ひたすら読書をします。そのうちに
他の牢にいる囚人に向けて大声で「孟子」の講義
を始めます。

最初は興味を示さなかった囚人たちが、興味を
持つようになりました。
野山獄を学校にしてしまいました。

看守ですら虎次郎の講義を聞きに行ったと
言われています。

ここでの講義が後に「講孟箚記こうもうさつき」として誕生します。

約1年間を野山獄で過ごしましたが
その後は杉家での蟄居となりました。

杉家家族は、(虎次郎がまた問題を起こさない
ように)野山獄での講義をやってくれと頼みました。

その後、玉木文之進の松下村塾を継ぎます。
松下村塾では身分に関係なく、様々な人が集まりました。

学問だけで無く、虎次郎の凄まじい愛国心や思想を学んでいき、明治維新の原動力になって行きます。

そうしてる間に井伊直弼いいなおすけにより、天皇の許可を得ず、勝手に日米通商条約が結ばれます。

天皇は激怒し、徳川家に「ちょっとこっち来て
説明しろ😡」
と言いましたが、幕府側は出来ないと回答
代わりに、老中「間部詮勝まなべよしかつ」を向かわせます。

間部詮勝は、天皇の許しを得るという功績を得て幕府の主導権を握ろうとし、対抗する攘夷志士を弾圧していきます。(安政の大獄)

これを危険視した虎次郎は
「間部を暗殺する」計画を立てます。

しかも藩主、毛利敬親が江戸参勤のときに
拉致しようとしたのです。

藩主が、天皇に不敬を働く幕府側については
絶対にダメだと考えました。

また危険な計画を立ててしまった虎次郎は
毛利藩によって再び野山獄へ投獄されます。

計画がうまくいかなかった虎次郎は、食を断ちました。
至誠が天に通じるなら生きるだろうと
考えたのです。

でも、母から「短気はやめて生きて」との
手紙と干し柿に玉砕し、断食は終わりました。

そして虎次郎は、評定(裁判)の為に江戸に送られることになります。

特に重い罪になるような評定では無かったのですが、正直者の虎次郎は、聞かれてもない
間部暗殺計画を、その必要性と共に暴露しましたが、至誠は天に通じず、死罪になったのです。

(感想)
虎次郎は最期まで、堂々としていました。
今後は倒幕に進んでいきますが
自分が死ぬことで、攘夷志士の心に火が燃え盛り
自分の志を継いでくれると確信していたのかも
しれません。

山口県民なのにあまり知らなかった
吉田松陰について学んでみました。

現代では生き方を見本にしたら
さすがに逮捕されそうですが

志を立てて実行し、自分らしく生きる事を
考えるきっかけになりました。

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