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小説 呪いの王国と渾沌と暗闇の主【第二話 大公殿下アドーニス】

 黄昏は温かな色彩で大地を癒す。赤茶色の巨大な崖の上にそびえる砦の周りには、なだらかな丘と森林が所々あり、昔あった帝国が作っていった石道がまだ十分に機能し砦の都から沈黙の館主が隠遁する南方の谷のほうへ続いていた。


 北には樹海を源にする大河が蛇行して崖の足元を横切って、緑の平野には放牧した牛と羊と野生馬たちがところどころに草を食べるのどかな風景が広がっていた。


 大公殿下は、都の周囲をいっきに馬に走らせると、疲れた馬を休ませるために自分も一緒になって、一本の木がある丘だった場所に、沈んでゆく夕陽を前に静かに佇んでいた。


 慌てて後ろからついてきた騎馬隊将校が横につけて挨拶をしようとしたのだが、大公殿下が軽く一瞥しただけだったので数歩後ろにひき下がり主人の用がすむのを大人しく待つことにした。

 

 大公は、去年も同じ時期に、この場所にやって来たことを思い出していた。

 

 そのとき、丘からの見晴らしに心を慰めていると妙な胸騒ぎが働いた。いつにない嫌な風を感じた。風の方角は北。彼は直感した。急いで国中の貯蔵庫を調べさせたほうがいい。予感はみごとに的中した。


 同年、国は厳しい寒波に襲われたのだ。時に、理屈よりも直感を優先させる大公殿下に反発するものは少なくない。腹心の部下でさえ大公殿下の唐突な意見に根拠がないと疑念を抱くことさえあった。それとは別に、いまだ正式な王位憲章をやんわり避け続ける言動に、なんらかの不信を抱くものがいても、さして不思議ではない。


 誇り高い風貌は権力者らしかった。艶のある長髪は風が吹けば揺れた。瞼は瞬きを忘れはしなかった。が、しかしいつも心は静寂と沈黙が支配して、感情は希薄で心の底から感動することの滅多にない若者であった。


「世は尊い。世は美しい、と人はいう。だが、一栄一落というではないか」


 乾燥した心の中で虚しいと嘆いてみても、なにが変わるわけでもなしに。いや、彼も自分でわかってはいるのだ。ただ、嘆かずにはいられない性分なのだ。あるいは、地平線に消えていく夕日が、そう言わせているだけなのかもしれないが。


 この青年は獣のような鋭い眼火とは裏腹に高い理性が燃え上がる激情を屈服させて、あたかも自由に操縦しているかのように、いつも行動は冷静沈着だった。人前ではもちろん、家族の前でさえ人並みの感情を露わにしたことがないといっていい。


 いかなる理由でも、部下を激しく叱責することも殆どなかった。そもそも怒りそのものが落胆にすり替わるのが恐ろしく早く、とはいっても、当然彼とて人は人。たまに何かにひどく失望したりすれば、目は虚ろになり伏し目がちになることもある。


 そういう時は決まって瞬きが増え、これは認めたくない現実から逃れたい気持ちと見据えなくてはならない勇気との心の葛藤の表れなのだ。


 上瞼は現実を下瞼は非現実(夢)を見るという。現実と夢、二つの世界を精神が交差して、いったりきたりする時にだけ、理性のたかが外れて激怒したり悲しみに浸ったり諦めの境地にいたったりする。しかしそれすら表さず、彼はひた隠しにするのだ。


 それは、いつも身につけている彼の外套、豪華な刺繍の施された紫水晶の粒が鮮やかにちりばめられているビロードの外套で完璧なまでに覆い隠しているのだ。煌めく外套は国の支配者の象徴でもあった。

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