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【短編小説】例えばの話 

「梶原さん」

とある四月のはじめ、クラスが変わってまだ二週間もたっていない、晴れた夕方。

私と近い出席番号の彼は、自分の仕事である窓閉めを終えると、向かい合うように前の席へ座ってきた。

「なに」

日誌を書きながら、声だけ反応する。

冷たい言い方だったかもしれない。

でも別に構わなかった。

私の性格はもう皆が把握している筈だから、別段気にする事なんかないだろう。

初めて同じクラスになった彼に、なにか優しくする理由も見当たらなかった。

「俺が天使だって言ったらどうする?」

私は思わずシャーペンを落とした。

「は?」

「いいリアクション」

荻元は、動揺することなく言った。

私が床に落としてしまったシャーペンを拾おうとしてくれる。

視線を低くしたことで、頭頂部が見える。

私はやっと我に返った。

「それでさ」

拾ってすぐに返してくれると思っていたシャーペンは、ずっと彼の手の中にある。

くるくると旋回している。

授業中、教室の中で絶対にだれか一人はやっている回し方を荻元はしている。

「願いを叶えてあげるって、俺が言ったらどうする?」

私は今度こそ、顔をしかめてしまう。

予測できないことを言われると、驚く代わりに顔がそう動いてしまうのが癖だった。

「引く。それに、天使が願いを叶えてくれるって違和感ある。神様ならわかるけど、なにそれ、嘘ならもっと、まともなのにすれば?」

言った私に、最初彼はきょとんとして、それから噴き出した。

教室の中にいるのは私達二人だけだ。彼の笑い声が、心地よく響いた。

人の少ない教室は、コンクリートのくせによく響く。

「いいね、それ」

「…なんなのいきなり」

 呆れて聞いた。

すると彼は不適に笑って、けれどさっきの大笑いの余韻も残しながらシャーペンをこっちに差し出してきた。

私は、それに応えて手を出す。

「いきなりでもないんだけどね?」

彼は私のシャーペンを机において、私の、差し出している手を掴んだ。

正確には、手首を。

早かった。いぶかしむ暇もなかった。

改めて、状況を確認してみる。

場所・教室。

時間・四時四五分。

誰もいない。

来る気配もない。

窓から差し込む夕日がまぶしい。

ぽかんと掴まれた手を見ていた私に、彼はもう一度言い放った。

「俺が天使だって言ったらどうする?」
「何が言いたいの」

きつい口調で言った。

つかまれた手首がやけに熱い。

「今俺、叶って欲しい願い事があるの」

夕方が教室を包む。

眩しい。

なにかが反射して目に突き刺さったようだ。

我慢できなくて目をつむる。

きっとそれは偶然だった。

そのあとは違う。

目を開けると彼の顔が目の前にあった。

なにかがほっぺたの近くに当たった気がした。

気のせいではない。

手首の温度がやけに冷たくなったのは、それからすぐあとだった。

彼は立っていた。

「ごめんね」

そう言って彼は教室を出ていった。

「なんなのよ」

私は一人そう呟いた。

本当に。

なんなのよ。

人の気持ちは無視ですか。

そう思ってさっきまで温度のあった手首を眺める。

すこしあとが残っていた。

きっと明日になれば、何事もなかったかのように肌色に戻っているんだろう。

じゃあ、気持ちは?

自分で自分の質問にびくりとした。

明日、彼はどんな顔をして、私と会うつもりだろうか。

それだけが今は怖かった。      

彼が本当に天使だったこと、私が十年前、既に天使の彼と会っていたことを知るのは、もう少し先の話だ。

 おわり 


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