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瞑想の道〚11〛真我の真実

 真我は特別なエネルギーの類ではない。もし何がのエネルギーであれば、それは真我ではないということだ。真我にはエネルギーがない。それは完全に静止していて、一切のエネルギー活動が行われていない。その状態を確認することができれば、それが真我だ。真我はエネルギーがない必要がある。もしそれがあるのであれば、真我によってつくられている世界は根底から歪んだものになってしまうだろう。世界の基盤としての真我は、静止していてエネルギーがなく、つまり何の性質もなく、姿かたちさえない必要があるのだ。そうあることで世界は何にでもなることができ、自由な動きとなり、何の操作も制限もない自然な状態でいられる。

 私たちが理解しようとしている真我はそういうものだと知っている必要がある。そうでなければ、何かしらの神秘的なエネルギーを探して、それを真我だと誤解してしまう可能性がある。そうなれば、その状態を維持するために、さらなるエネルギーを得ることに執心してしまうだろう。完全に静止していること以上に静止することはできない。つまりその静止は静止として変化しないということだ。その状態は真我に於いて確信することができる。少しでもそこにエネルギー的な活動があるのであれば、それは常に強くなったり弱くなったり、現れたり失われたりする。それは一種の活動状態であり、真我の本質から外れたものになるのだ。

 同様に姿かたちもない必要がある。少しでも姿かたちがあれば、それは常に変化するものとなり、その姿を定めることがない。そこに決定的な確信を持つことは不可能だ。しかし、姿かたちがなければ、変化に対して恐れる必要はなく、「在る」だけのことだと認めることができる。姿かたちのない「在る」が変化することはないからのだ。そこには何の性質もない必要がある。何の性質もないから、どんな性質にもなることができ、すべての基盤として存在できる。善や悪といった性質でさえそこにはなく、この世界の悪さえも真我によってつくられているのだ。もちろん真我には何の意図もなく、人を啓蒙したり、導いたり、救済したりすることもない。

 自分が真我自身だと理解したとき、この事実を受け入れることになる。真我は自我の欲望を実現させるための都合のいい媒体ではない。自我や世界をはるかに超越した存在だ。あらゆる瞬間に存在していて消えることなく、いつも全時空に行き渡っている。自我はそんな途方もない真我の実像を想像することができない。そのため、真我を神格化し、自分を卑下し、その庇護に預かろうと目論む。そうして真我の真実から目をそらし続けるのだ。実際に誰もが真我であり、自らその真我であることを確信することができる。自我が抱いている真我への妄想を破壊し、自らがそれ自身になったときにのみ、真我のことを真に理解できるのだ。

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