子供の頃、東京下町の記憶 4回目
家のある工場の敷地内には工場勤務者のための大きな浴場棟があって、ふだん私たち家族もこのお風呂を利用していたが、父は時々、工場内にある小さな五右衛門風呂に入っていた。父がドラム缶で作った小さな五右衛門風呂で、下から焚き火のように燃やしていた記憶があるが、焚き火で燃やしていたのはもしかしたら記憶違いかもしれない。父の仕事が終わる頃に、母と姉弟と一緒に工場を訪ねると、父が五右衛門風呂で一汗流していることが何回かあった。五右衛門風呂の側には小さなテレビもあって、私たちが行くと、アニメのチャンネルに合わせていいよと言われ、「サザエさん」とか「ガッチャマン」を観た記憶がある。中でも、ある1日の記憶は非日常的な印象を私に残した。少し開いた工場の扉から見えるものすごいような夕焼けと、工場内の暗さのコントラスト。その中で五右衛門風呂の中の父の顔は上気して輝き、その周りを囲む私たち家族は点々と工場の床に影を落としていた。なぜか私は客観的にその情景を眺めていて、綺麗だな、そしてすごく寂しいと感じていた。
ある晩、大きな嵐があった。その晩、父は夜勤で家にはおらず、私は雷が鳴るたびに怖くて、ちゃぶ台の下に隠れて座布団に頭を突っ込み、耳を塞いでいた。弟も泣いており、姉も不安そうだ。母は「大丈夫よ」と声をかけながら、ガタガタ鳴る窓の方へ行ったり、雨漏りがある場所へバケツを持って行ったり、動き回っていた。突然、ものすごい雷の音が響き渡り、瞬間に、真っ暗になった。ついていたテレビの音も消え、弟の泣き声が一層激しくなった。
母はパニック気味に、大声でみんなに「停電だからね、ちょっと待って、ロウソクを持ってくるからね」と声をかけ、しばらくすると、懐中電灯で照らしながら、ロウソクをちゃぶ台の上に灯してくれた。その晩は、父のいない家で母と姉、弟と私の4人、窓を叩く風雨の音、雷の恐ろしい音に耐えながら、ロウソクを囲むひと時を過ごした。停電はなかなか解消せず、暗闇の中で布団に入り朝を迎えた。
その翌日、母から父が入院することを聞かされた。あの嵐の晩に父が不在だったこともあり、あの嵐のせいで、父は入院することになったのかもしれれないと、しばらく思っていた。
父の入院は1ヶ月ほどだったと思う。嵐のせいではなく、胃潰瘍の投薬治療のためであった。父親は私が物心つく前からいろいろな場所へ私を連れ回していた。行きつけのスナックでは私を連れて行くとお姉さんたちに大人気だったらしい。自転車の後ろに乗せて本屋へ行ったり、目的はわからないがバスで錦糸町へ出て、焼き芋を買ってもらったり。連れて行くのはいつも私だけで、そのため、私は父親っ子のようになっていた。父のお見舞いへは家族全員で行ったが、いざ、もう帰る段になると、父が私に泊まっていくかと聞いた。私は父を残して帰るのがとても切なく、でも、みんなが私を置いて帰ってしまうのも寂しく、どうしようかと考えて黙り込んでしまった。
母は病院に無断で泊められないと反対したが、父がニコニコして大丈夫だよ言うので、どちらかといえば父のために泊まることにした。その晩、私は父の夕食を少し分けてもらい、父の脇の下で眠った。翌朝、看護師さんが巡回に来た時はもう目覚めていて、見つからないように必死で脇の下でじっとしていたが、今から思えば、気づかれないわけがないようにも思う。看護師さんは父と目配せをして、気づかないふりをしてくれたのかもしれない。
5回目に続きます。
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