見出し画像

『お前の出番はまだだ。』2024/08/17 KSJ裏名古屋大会感想

2024/08/17
コトバスラムジャパン2024裏名古屋大会
出場した。
結果は決勝戦敗退(決勝戦進出4名中3位)
得点は27.5だった。

2017年のポエトリー・スラムジャパンに初出場をしてから5回ほど出場しているが毎回初戦敗退で、今回がはじめての決勝戦進出だった。

まぁ、悔しいわけで。
決勝戦で自分の出番が終わり、クノタカヒロのパフォーマンスの最中に負けを確信して、悔しさで涙があふれるぐらいには悔しかったわけで。
祈りとかじゃないんだよな。
決定的に「負け」の確信があった。
初戦から準決、対敗者復活防衛戦まで、「勝った」という確信があったからより感じた感覚でもあった。

「勝つ為のメンタル」を考えた。
これまで出場した大会では「勝てるだろう」というニュアンスで出場していたことが多いように思う。
けれど、この一年間名古屋でのスラムで「相手に勝つ」ということを意識したパフォーマンスをし続けたことで、今大会へのモチベーションや意識が適切に変化したという自覚があった。

NSWSやDreamMicで、優勝や勝ち越しなどは逃しているが「狙ったところでは勝つ」という課題を課し、クリアした経験をしたからこそ、今回の大会での「勝ち負け」に対する確信があった。
祈りはしなかったという話だ。


以下、今回の戦略とそれに伴う感覚についてを記す。

まず、裏名古屋大会そのもののレギュレーションだ。
・小道具あり
・音楽あり
・楽器使用可

正直、このルールの中があったからこそ、私の勝利条件はかなり上がったと感じている。
そして、大切なのは初戦のインパクトであって、インパクト後の展開で観覧者は私の味方になってくれるという確信があった。
それはポエトリーの経験則というより、20年近くにもなる演劇経験の経験値ゆえの判断だった。

・観客の印象操作によって行う、評価基準の調整。
・観客を味方にするパフォーマンス。
・味方にした上で「次も見たい」と思わせること。

もちろん、前提としてはいいパフォーマンスをするという条件をクリアしなければならない。

では、今大会のルールの上で自分の色も出しつつ、かつ、戦略的に勝つ為の方法とは。

演劇だ。
と、思った。


長らく、ポエトリーリーディングをする上で決めていることがあった。

「基本的にテキストを持つということ」

これは、東京でのオープンマイクで活動していた時に「演劇っぽい」という言葉を何度かもらった際に、それが揶揄的な印象を私に抱かせたからこそ、強く自分の中のルールとして存在している事柄だった。

「俺は詩を読みに来ている。演劇をしているつもりはない。
では、詩を読むということはどういうことなのか。
演劇から離れてポエトリーリーディングをしているのになぜ演劇と言われてしまうのか」

という、なんとも拗らせた悩みを抱いていた。
っつーか、そりゃあ何年も演劇していた人間のリーディングが演劇的にならない方が難しいに決まってんだろって、今なら思う。
だが、当時の私はそれが本当に嫌だったし、では求めるポエトリーリーディングとは何だったのかも不明確なまま、ストレスを抱えていたのは事実だった。

だが、今回の大会で、というかここ最近の私自身の演劇活動のこともあり、ポエトリーリーディングに演劇を取り入れることは必要なことだと感じた。

では、何をしたかというと、単に自分で書いたコトバを「覚える」だけだったんだが。

実際に、覚えて詩を読むことはかなり自由だった。
どう読もう、とかどういうテンポで、とかそういうことではなく、

「如何に表現を行うか」

という要素に全ての事柄が集約され凝縮されていった。

俺が伝えたいのはコトバではなく、コトバの向こうにある俺が見ている世界だという感覚が形作られていった。

コトバがどう読んでほしいのかを訴えかけてくる。

強弱や展開を自ら生み出したコトバ達が自ら修正し最適化してくれる。
余分なことは排し、純粋にプリミティブな形へ。
10数年の演劇経験に裏打ちされた表現の最適解。
私が求め続けた表現方法を3分間の短い時間の中に詰め込んだ。

初戦でパフォーマンスした「ビオランテ」は初稿よりもかなり形が変化した。
かと思えば、準決の「絹ちゃん」は初稿からほぼ何も変えていない。

演劇を信頼するということ。
それが今回の結果の要因だった。
同時に、演劇に対して「すまんな」とも思った。

18歳で出会い、大学中退して夢中になり上京して、心が折れることも何度もあって、何も失くして地元に戻っても、俺の心には「演劇」があった。
コトバよりも、表現行為よりも、artよりも、先にある。
「演劇」という存在。
それを持たずしてずっと人前でパフォーマンスをしてきた自分を恥じた。
演劇=自分の人生そのものだというのに。
(まあ、演劇でも結果は出せていないから、だからなんだという話かもしれないけれど、それはそれとして。)


ブロック分け抽選からの対戦者の確認。
一回戦、Cブロックのグループ傾向の分析。

・DJ K.T.R
・宇宙人
・Maria

DJ K.T.R氏はサウナだろう。
一番手ということで会場を沸かすパフォーマンスになることは確定している。
彼のパフォーマンスはとにかく展開が巧みだ。正直、彼のパフォーマンスでCブロック全体の空気感が決まってくると予想。
次いでの宇宙人氏は100か0かの相手。観客がハマると怖い。
Maria氏のパフォーマンスをがっつり見たことはないけれど、彼女の活動内容を考えるに、大別すると私の初戦のパフォーマンスと似た形になると思えた。

この面子を相手取って裏名古屋大会のレギュレーションで利用できること。

・小道具とコスプレ(衣装)だ。

奇をてらいつつ、あくまで正統なパフォーマンス。けれど、飛び道具も乗せて、「次も見たい」と思わせる。
私は女装を選んだ。昨年ハロウィンで用意したドレスがあった。
しかし、これではまだ足りない。衣装はあくまで衣装であって飾りだ。
小道具では何を使うか。
これまでの演劇作品の中で私が最も好きで得意な演出効果。
「ぶちまける」をやろう。
絵の具、紙きれ、梱包材とあますことなく舞台空間に広げた演出効果をパフォーマンスに取り入れることを考えていた。
何を?
舞台上で進行に迷惑をかけることは出来ない。
運のいいことに、7月に自身のイベントで使った花びらがあった。
これだと思った。
花びらをパフォーマンスの最中に撒き散らしてやろう。
どのように?
ウィッグ?
衣装?
・・・マスクだ。
SMプレイ用のマスクをかぶり、そこに花びらを仕込み、撒き散らす。
上手く効果的な場面で花びらを蒔けるよう、「ビオランテ」の構成の調整。
さあ、準備はOK。

「私には骨がありません・・・。」
から始まる「ビオランテ」はひ弱で奪われる女性を演じる。
自らの体を心を信念を他者に奪われ続け、自らの存在がどこにもなくなるという感覚。
そこからの反旗。
「私を決めるのは私である」という傲慢で強固な意志表明。
マスクを外し、花びらを舞い散らせた客席の空気がとても心地よかった。

Cブロック勝利の印象付けはとてもうまくいった。
ついでの準決勝。
Bブロックの一番手。
Aブロックからの休憩なしでのBブロック継続。
Aブロック最後のパフォーマンスは敗者復活戦で勝ち抜いたクノタカヒロ。
そこからの続きだ。
会場は湧き上がっている。同時に、それなりの疲労感も漂っている。
初めてポエトリーの大会に来た方にとってはなかなかに酷な状況だったろう。

これを逆手に取らせてもらう。

準決勝戦、自分のパフォーマンス前に一言入れた。
「皆さんお疲れだと思うので、優しいやつを」
この言葉で空気が和らいだ。初戦であんな格好であんなことをしたやつがこんなことを口にすれば空気は嫌でも和らぐ。だってみんな構えていたに決まっているから。
そして、「絹ちゃん」
「ビオランテ」とは異なり、静かで柔らかく、悲しく、日本人の記憶として連想しやすいテーマ。
実際、今回のセトリの中で「絹ちゃん」が一番好きだ。
感情もすごく乗せやすかった。

「覆水盆に返らずと言いますが、あの子はお盆に帰ってきます」

自画自賛だが、声に出して読みたい日本語だと思う。

対敗者復活防衛戦。
これはどんなパフォーマンスが来ても「勝つ」気持ちだった。
妄想憑依テキスト「ゴジラ」は、企画に合わせて書いたものだが、今後も読み継いでもいいものだと思った。
日本人にしか書けない詩だと思っている。
そもそも、ゴジラは負けねえんだよ。
読みたいと思っていた詩を読んで勝てたのでとても嬉しかった。

そして運命の決勝戦。
「僕の小さな町」
これはこの一年間、いろんな現場で読み続けてきた作品だ。
ポエトリースラマーとして、詩人として、決勝戦でこの作品は読みたいと考えていた。
だからテキストを持って戦った。それが俺の詩人の意地だ。
決勝戦はいろんなドラマがあった。
バックボーンがあって、小さなトラブルと大きなルートがあって、ドラマに負けた。

泣いた。
クノタカヒロのパフォーマンスを聞いたとき、涙があふれた。
会場の空気が塗り替えられていくのを感じた。
終盤のオセロのように。

「ああ、負けた」

と、クノ氏のパフォーマンスを最後まで聞き終える前に、涙が溢れていた。
悔しかった。

翌日、坂本樹と酒を飲んでいるとき、
「メンタルは大事だ」という話になった。
「勝つイメージ」をどれぐらい持てるかということだ。
今回、初戦~対敗者復活防衛線までは「勝っている」自分のイメージを強固に持っていて、それがブレることはなかった。そこまで戦略を練っていたのもあるから。
しかし、最後の最後まで決勝で勝っているイメージを持つことが出来なかった。
その先の「全国に立っている自分」も「全国優勝している自分」もイメージすることが出来ていなかった。

今回の大会で得られたものの中でこのイメージの力は大きい。

全国大会への扉に手を掛けて、けれど扉は閉じた。
「お前の出番はまだだ」
と言われた。
その言葉には愛があった。

俺は世界大会に行かねばならない。
行って、「絹ちゃん」と「ゴジラ」を読みたい。
アジア人として日本人として敗戦国の人間として、世界に叫びたいことがある。伝えたい感情がある。

2027年までに世界に行ってやる。
2025年には必ず行ってやる。

という、決意表明を締めにする。

対戦者の皆さん、KSJ運営チーム、観覧の皆さん。
ありがとうございました。
また会おう。
そして、また読ろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?