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「わたしが感じたリカバリー」

わたしは名古屋市で精神保健福祉士として10年ほど活動しています。今回はこれまでリカバリーを応援してきた過程において、さまざまな試みのなかで得た体験から、改めて「リカバリーに必要なこと」をわたしの視点で捉えなおし、皆さんに紹介することにしました。

まず、一般的なリカバリーの定義から触れます。

アメリカの政府委員会によると「人々が生活や仕事、学ぶこと、そして地域社会に参加できるようになる過程であり、ある個人にとってはリカバリーとは障害があっても充実して生産的な生活を送ることができる能力であり、他の個人にとっては症状の減少や緩和である」とされています。

疾病から回復することは「臨床的リカバリー」と呼ばれており、夢・目標・当事者主体・じぶんらしさにたどり着く過程のことは「パーソナルリカバリー」と呼ばれています。

わたしはそのような過程や概念を知らずに精神保健福祉の世界に入りました。そのときはまだ、読んでかじった程度のメンタルヘルスの知識と、すこしばかりの福祉の経験しかなく、当事者に提供できるものはほとんどない状態でした。

最初に勤務したのは名古屋市にある生活訓練施設。そこではメンバーさんの話を聴き、プログラムを提供したり、一緒に地域のイベントに参加したりしていました。

担当させてもらったメンバーさんたちに、わたしがしていたのは存在を全肯定することでした。これをbeingとしての存在と呼んでいます。

目の前で苦しんでいる当事者と支援者のわたし。
それぞれの存在が共にある」ということです。

「ひととしての存在をまるごと肯定する」ということから出会いを始める

支援を受けたくて来所したひとのなかには、じぶんの話が目の前にいるひとにどう受け止めてもらえるのかが気になっているひともいます。それはこれまで他人に話した際に信じてもらえなかったり、相手の示した反応にショックをうけた経験があるからだとおもいます。

わたしの場合は相談機関ではなかったにせよ、節目で進路や人生の悩みをだれかに相談したときにおなじような経験をしたことがあります。しかし相談したことを「受け止めてもらった」と感じられたときには、じぶんで前進していくことができました。

その経験から、ひとは誰かにじぶんという存在を肯定されたときに、なにかが回復・活性化され、そのちからで前にすすんでいけるという気づきを得ることができました。

素人の状態で精神保健福祉の世界にはいったわたしは当時、じぶんなりに相手の存在を「受け止める(まるごと肯定する)」ということをしていました。それは相談内容や困りごとそのものへの評価や肯定の「する・しない」ではなく、それらを抱えた「存在」を肯定するという意味をもっていました。

そして支援者とメンバーさんとの双方向における「肯定する・される」という状態をとおして、そこから更に前進したものもあるとおもいます。

当事者のなかには色々な悩み・願望・恐れ・信念・価値観・主張を持っているひとたちがいました。当時のわたしはそれに対してできるアドバイスもなく、ただ「一緒にいる」ということしかできませんでした。話を聞くときも、一緒にどこかへ出かけるときも、地域で役割をもって行動するときも、誰かの役に立つ過程においても「一緒にいる」ことはかわりませんでした。

しかし、それを続けていくうちに(もちろんそれだけではないにせよ)メンバーさんがすこしずつ、じぶんのやりたいことを話してくれたり、お仕事にチャレンジしたりするようになりました。次第に苦しみを語ったり、家族と向き合ったりするひとも出てきました。

その理由はいまだにわかりませんが、あえて理由づけをするならば、当時その環境にいたひとたちの人生がそれぞれひらけていったのだとおもいます。

もちろん、それぞれ役割・立場・状況は違います。ただ、そのひとが対話・経験・出会い・困りごと・苦悩・弱み・生きづらさを通じ、ひとや社会とかかわっていくことによって「ときには前向きに」「ときには後ろ向きに」「ときには斜めに」人生がひらかれていっていたのではないでしょうか。

この「ひらけていく感覚」を得られる環境(機会・ひと・雰囲気)こそがリカバリーには必要だったのだと思います。

また、わたし自身も「ひらけていく感覚」があり、ご本人とおなじように、対話・経験・出会い・困りごと・苦悩・弱み・生きづらさに向き合うことになりました。その過程は楽しいことばかりでなく、正直、苦しいことのほうが多かった気がします。それでも人生がひらけるという感覚を得られたのはとても重要なことでした。

この経験を通して、リカバリーのプロセスは「これまでの人生には見えていなかった景色がひらけていくことにある」と捉えるようになりました。


人々が出会って、かかわり、人生がひらける。

仮にこれをリカバリーの基本要素だと考えるのであれば、そこにいるひとたちはどんな立場や役割をもっていても、本質的に平等であり、対等であるはずです。そもそも上下や優劣でとらえようとする発想自体が自然ではないように思うのです。

そして、人生がひらけていく場面においては、不安や心配が先立ち、その場から逃げ出したくなる場面が少なからずあると思います。たとえば、わたしがかかわった例では、当事者体験を精神科病院の入院患者さんや、医師・看護師などの医療スタッフの前で発表したかたがいます。その場に向き合うのは言葉にできないほどの感情があったと思います。

その場に至るまでに見直した自身の過去・経験・そこから得た知見。無事に話し終わり、そこに意味を見いだせたときの感覚や情景は本人の人生になにかしらの影響をもたらしていると思います。

いまになって、あのとき傍にいたわたしは、果たしてなにがやれたのかと振り返ると、やはり「一緒にいる」ということだったのではないかと思います。そこにいるだけかと思われるかもしれないですが、なにか意味はあったのだと思います。

具体的にいくら稼げるようになった、あたらしく仕事に就いた、ボランティアに参加した、勉強して資格を取得できたなど、目に見えるものはもちろん大事です。それがなければモチベーションは維持しづらいと思います。ただ、目に見えないものも、見えるものとおなじように大事だと思います。

今回あらためて自身を振り返って感じたのは、これまで支援の現場にいた10年間、意味・影響・経験など目に見えないものも、見えるものと同じように大事にしてきたということ。特にその場での「いかた・あり方」を大事にしてきたのだと思います。

最後にリカバリーに寄り添うために必要なものは、大きくわければ「ひと」と「環境」だと思います。環境に存在しているひとたちが、関わりあうことで、お互いにひらかれていく。そのプロセスがリカバリーだと感じています。

だとすればリカバリーには双方向性があり、全体的な動きを伴うものではないでしょうか。抽象的な言葉ではありますが、読んでくださっているひとたちと、これからのわたしに対して「考える機会」を提供できればと意図して、このような形で締めさせていただきます。

語り部 トトノイ

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