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【小説】ちょっと待てメロス


その男が警吏に引き立てられて玉座の間に入ってきたのを見て、ディオニス王はすぐにそれを悟った。

ディオニス王がここ数ヵ月の間、何度も目にしてきた類の男だった。

「王城に許可なく立ち入ったかどで捕らえました。懐中にはこれなる短剣が」

警吏がその男――メロスという名の牧人の裁きを求めるのを聞きながら王はひそかにため息をついた。

見るからに善良な男である。善良で、そして馬鹿である。

おそらくはここ数ヵ月の間にディオニス王が治めるここシラクスの街に流布する噂話に乗せられての王城への闖入であろう。すなわち、

「ディオニス王は暴君である。自分の身近な王族や家臣を理由なく処刑し、人を信じず、国を傾かせている」



ディオニス王が自分の近親者を含む王族や家臣を処刑したのは事実である。

王はまず妹婿を処刑した。それから自分と皇后の間に生まれた長子を処刑した。しかし、それは妹婿が若く野心に燃える長子をたきつけてディオニス王の王座を奪おうとしたからである。つまり反逆者を誅したにすぎない。

その後、その王権簒奪の企みが妹の手引きであったことが知れたため、これも処刑した。妹の住む居城に兵を差し向けてこれを連行しようとしたとき、その息子が手勢とともに武装して手向かってきたためやむなくこれも殺害した。

その後、ディオニス王は自身の皇后をも処刑しなければならなかった。理由は自分の長子を処刑されたことを恨んだ皇后が家臣のアレキスと通じて他国であるカルタゴと内通していたことが間者(スパイ)の働きで明るみになったためである。

アレキスは巷では賢臣と称される有能な家臣だったが、処断後に内情を詳しく調査したところ、シラクスの国有地から上がる貢納を不正に着服していたことが判明した。アレキスはそうして蓄えた財産を手下や民衆に分配することで名声を博していたのだ。賢臣とは名ばかりの奸臣であった。



このように、ディオニス王が短期間のうちに自分の同族や臣下を処刑したのにはいずれも為政者として至極もっともな理由があった。彼は決して聖人ではないが、暗君、ましてや暴君ではない。

にもかかわらずシラクスの街に先に述べたような噂が広まっているのは、シラクスを狙うカルタゴの間者の暗躍のためである。カルタゴはシラクスの内紛を企図し、行商人や易者に扮したスパイを送り込み、ディオニス王の悪評を流布しているのだ。

そのため、ディオニス王はここ数週間、シラクスの街に不要不急の外出や集会を控えるようお触れを出した。シラクスの街が死んだように静まり返っていたのはこの一種の戒厳令のためである。それ以外の面でいうと、シラクスの街はディオニス王の堅実な統治のためおおむね平穏を保っていた。



「とはいえ」とディオニス王は思った。

とはいえ、ここ数日、ディオニス王を暴君とする流言飛語に踊らされて王城に侵入しようとする者が続出している。

いずれもお人好しで直情的な者たちだが、国の将来を思っての正義感からの行動である。いわば他国による内紛工作の被害者ともいえる。それだけにディオニス王はその処遇に頭を悩ませていた。



こうした者たちを厳しく処罰すればどうなるか。暴君・ディオニスが善良な市民を手にかけた、として市中に広まる流言飛語に一層の信憑性が備わるだろう。そもそもディオニス王はこのお人好しの者たちに罪がないことを知っている。悪いのはカルタゴである。それを表情一つ変えずに処刑できるほど、ディオニス王の心は冷たくはなかった。

しかし、一方で温情からこうした者たちを全て無罪放免すればどうなるか? ディオニス王は近時の王族や臣下の反逆からいくつかのことを学んでいた。それは王の支配を正当化するのは血脈や神託ではなく、その支配の客観的な正しさだということである。

自分の血を分けた実子が王権を奪おうと挑んできたとき、それを力でねじ伏せることはたやすい。しかし、それではその者がさらに力を持って立ち向かってきたときにどうなるか。強い者の支配が正しいとするならば、それに抗う術はない。周りの臣下や民衆もその強い者になびくであろう。

ディオニス王は考えた。強さ以外の正しさというものがあるはずだ、と。それは何か? 客観的な基準に基づいて何が正しく、何が正しくないかを決める尺度があればよい。すなわち、「法」である。

自分や過去の名君たちが作り上げた法に従ってこのシラクスの街を治める。ディオニス王はそれを自らに課した。だからこそ、単なる温情で王城への侵入者を無罪放免にすることはできない。


シラクス王城管理令第238条
王城に許可を得ずに立ち入った者はその理由を問いただし、正当な理由がない場合、鞭打ち10回または10日間の抑留とする。



先人の定めた法によれば、王城への侵入者は審問を行って、その理由を問いたださなければならない。そして、正当な理由がない場合、定められた刑罰を与えなければならない。今回もディオニス王はこの法に従って、このメロスという牧人の処遇を決めるつもりであった。

とはいえ、「正当な理由」というのはかなり広く解釈することができる。たとえば、「真摯な気持ちから王に陳情するため」という理由であればディオニス王はこれを「正当な理由あり」として無罪放免する心づもりであった。実際、ここ数日何度か現れた侵入者たちはみなその理屈で放免されていた。

玉座の前に平伏させられているメロスに対し、ディオニス王は威厳に満ちた声で問うた。

「メロスとやら、そのほうがこの城に立ち入ったのはいかなるわけがあったのか。見たところ、懐中から出てきた短剣は手仕事や食事の際に使うありふれたもののようだ。よもや王であるわしを傷つける意図があってやってきたのではあるまい。何かわしに陳情したくて来たのではないか?」

これにメロスが「はい」と答えれば一件落着である。

ところが、メロスは顔を上げてディオニス王を真っすぐ見つめると、大きなよく通る声でこう答えた。

「このシラクスの街を暴君の手から救うために来た」

居並ぶ家臣たちの顔に緊張が走った。

ディオニス王はゆっくりと、メロスをなだめるような口調で話しかけた。

「待て待て。『暴君の手から救う』というのはどういう意味か。それは王であるわしに直訴して政治を正したいという意味であろう。まさかその短剣でわしを害する目的というわけではないであろう?」

「まさに王が言うその目的のために来た。このシラクスの街を救うためには邪智暴虐の王を倒し、これを除かなければならない」

「ちょっと待て」

ディオニス王は大きく息を吸って、吐いた。そしてゆっくりと噛んで含めるように言葉を続けた。

「メロスとやら、ちょっと待て。少し落ち着くのだ。お前は自分が言っていることがどういう意味を持つかわかっておらん。もし、仮にだが、お前が王である私を殺害する意図を持って王城に立ち入ったとすれば、それは反逆罪ということになる。反逆罪は磔の刑。すなわち死刑だ」


シラクス市刑法81条
王の殺害を企てた者は磔刑に処する。



「無論、その心づもりで来た」

王の問いかけにメロスは胸を張って、意気揚々と答えた。

ディオニス王はメロスをあわよくば無罪放免、悪くても鞭打ちか10日間の抑留で穏便に処遇しようという心づもりであったが、にわかに雲行きが怪しくなってきた。

法によれば王の殺害を企てた者は例外なく死刑である。命を奪わない別の刑罰などは予定されていない。そうすると、このままいけばディオニス王はメロスを十字架に磔にして殺さなければならなくなる。

ディオニス王はそれを避けたいと思った。義憤に駆られて行動したであろうメロスに同情したというのももちろんある。しかし、それ以上に、この明らかにお人好しの馬鹿者、どうがんばっても警備をすり抜けて自分を殺すことはできないであろうメロスを死刑にすることで民衆がどう反応するかを危惧したからである。おそらく、「暴君ディオニス」の評判は今よりも一層広まることになる。これではカルタゴの思う壺である。

とはいえ、法の遵守を信奉するディオニス王に、法を曲げてメロスを救うという選択肢はない。審問の場に居並ぶ臣下たちは王の采配、その一挙手一投足に注目している。ここでいい加減な判決を下せば、王が日頃から臣下たちに厳守させようと努めてきた法による支配への信頼は一瞬にして瓦解する。

ディオニス王は考えながら、ゆっくりとメロスに語りかけた。

「わしを殺すとな。ふむ、メロスよ、お前の今の発言は重大である。重大であるだけにそれをそのままこの審問の判断材料とするのは忍びない。見たところお前は学問も教養もない羊飼いである。当然、このような場で自分を弁護する術も持たないであろう。お前に、法律に通じた雄弁家を弁士として立てることを許す。その上でもう一度お前の主張を聞こうではないか」


シラクス市審問規則70条
王による審問に際しては、本人が自分の口で王の質問に答え、または自らの主張を述べなければならない。ただし、本人が希望する場合において、王が許可したときに限り、弁士に代わってこれを行わせることができる。


ところが、メロスはきっぱりとこう答えた。

「今述べたことが私の嘘いつわりのない本当の心である。自分の心を述べるのに弁士を立てるには及ばない」

ディオニス王はその答えを聞いてしばし沈黙した。法によれば、本人が望まない以上、無理に弁士を立てさせることはできない。そして、メロスの答えをその言葉通り受け取れば、ディオニス王がこの哀れなお人好しの牧人に死罪を科さなければならないことが明白だったからだ。

居並ぶ臣下たちは王の処断を待っている。

「ただ・・・」

ディオニス王が重い口を開けようとしたとき、メロスが言葉を続けた。その声には初めてためらいの響きがあった。ディオニス王は、一抹の希望を抱いて、メロスの発言の続きを待った。

「ただ、もし許されるなら、処刑までに3日間の猶予を与えてください。私には妹がいます。私にとってたった一人の家族です。私が死んでも憂いがないように、この妹に亭主を持たせてやりたい。3日間のうちに私は村で結婚式を挙げさせ、必ずここへ帰ってきます」

ディオニス王はメロスの訴えを聞くと、主要な法令を記した羊皮紙の巻物を子細に確認してから答えた。

「お前の願いを聞き入れてやろう。お前の行為は死刑に値する罪だが、法によれば処刑までの日限は王の裁量で決めることができる。そして、その間、お前を牢獄に抑留しておくのが通常であるが、抑留せずに釈放することも法は禁じていない。シラクス市刑法121条にそう定められている」

ディオニス王はそう説明しながらひそかに胸をなでおろしていた。おそらくこのメロスという男が3日後ここに戻ることはあるまい。村での結婚式、妹とその婿、親しい友人たちとの酒宴。そういったものを経験すればメロスに「死にたくない」という気持ちが芽生えるはずだ。

メロスが戻らなければ、ディオニス王はメロスを殺さずとも済む。もちろん、処刑を予定された者が逃げ隠れすることはそれ自体が罪ではあるが(シラクス市刑法97条の逃亡罪である)、王の側にそれを捕まえて処断する義務はない。逃げてしまった罪人を処罰できないことは往々にしてある。それは法の敗北ではない。

「よろしい。ではお前に3日間の猶予を与えよう。この審問の場で、わしはお前に3日後の日没に処刑することを言い渡す。この3日間で自分や家族の将来についてよく考えるとよい。念のため言っておくが、3日後にここに戻った場合、お前は死ぬことになる。その意味をよく考えるのだぞ」

ディオニス王は「だから戻ってくるな」とは決して言うことのできない立場だが、その真意をメロスが汲み取ってくれることを期待して念を押した。これでおそらくは大丈夫であろう。

ところが王が審問の終了を宣言しようとしたとき、メロスが予想外のことを言い出した。

「王はこの3日の間に私が逃げて戻ってこないとお思いだろう。私は約束は必ず守ります。その証に、私の友人を身代わりに差し出します。私の唯一無二の親友です。私が万が一戻らなかったらこの友人を私の代わりに処刑してください」

「ううむ・・・」

メロスの発言に、ディオニス王は思わず唸った。というのは、王が先程確認したシラクス市刑法121条はこのような定めになっていたからである。


シラクス市刑法121条
刑を言い渡された者はその執行までの間、牢獄に抑留する。ただし、その者の希望がある場合、王は執行までその者に身代わりを立てさせることでその者を釈放することができる。その者の希望がない場合、王が特別に許可したときは王は身代わりを立てさせずにその者を釈放することができる。



これを読めばわかるとおり、罪人から人質を立てて釈放を希望する声がなければ王の特別の許可で身代わりを立てさせずに釈放することができる。もともとディオニス王はその定めに従ってメロスを釈放する心づもりだった。しかし、あくまでも罪人が身代わりを立てることを希望した場合、その者を釈放するには人質をとらなければならないというのが法である。

ディオニス王は熟慮した結果、こう答えるほかなかった。

「よかろう。法に基づき、お前の申し出る友人を人質としてお前を釈放することにする」

その後、程なくしてシラクスの街に住む石工が人質として王城に連行されてきた。名をセリヌンティウスという。

メロスとセリヌンティウスは王の前で無言で頷き合うと、友情の抱擁を交わした。

王はため息をつくと、法の定めに従ってセリヌンティウスを人質として牢獄に抑留させ、かわりにメロスを釈放した。

そして、メロスは王城から故郷の村へと旅立っていった。初夏、満天の星である。



***



メロスが村に戻り、妹に結婚式を挙げさせ、家畜小屋の藁の中で高いびきをかいている頃、ディオニス王は王城の自室にこもって羊皮紙に書かれた法令や過去の先例を子細に検討していた。

問題は次のように整理できる。

まず、メロスが処刑の刻限までに戻った場合、王は先程言い渡した死刑判決に基づいてメロスを十字架に磔にして殺さなければならない。この場合、民衆は愚直で哀れな牧人を冷酷に処刑したとしてディオニス王への不信を募らせるであろう。

一方、メロスが期限内に戻らなかったとしたらどうなるか。この場合、王としてはメロスの代わりに人質であるセリヌンティウスを処刑しなければならなくなる。シラクス市刑法122条は次のように定めているからである。


シラクス市刑法122条
王の許可を受けて身代わりを立てさせた者が刑の執行の期限までに出頭しなかったときは、身代わりはその者が受けるはずだった刑に服する。


「その者が受けるはずだった刑」とは、この場合、言うまでもなく死刑である。メロスの思い付きの人質の話を二つ返事で了承したセリヌンティウスには何の罪もない。しかし、メロスが戻らなければ王はこの友情に篤い男を十字架にかけなければならなくなるのだ。これがシラクスの民衆の王への不信を生むことは火を見るより明らかである。

ディオニス王が一層閉口させられたのは、人質として抑留されたセリヌンティウスの一族郎党、友人、知人たちが王城の前でセリヌンティウスの勇気と友情を称え、メロスの帰還を待つお祭り騒ぎを始めたことであった。

どうやらセリヌンティウスの妻の父はシラクス市の石工組合の幹部であったらしい。彼は自分の義理の息子の行動にいたく感動し、組合員たちに声をかけてこの馬鹿げた催しを始めたようだ。外出禁止のお触れが出ているにもかかわらず、今や王城前の広場にはセリヌンティウスの支援者らが寝泊まりする掛け小屋、獣肉の串焼きや菓子を売る屋台のほか、見世物小屋なども急造されて文字通り祝祭の日のような賑わいとなっていた。

事がここまで大きくなると、しかし、なおさらディオニス王が法を曲げた判断を下すことは難しくなる。今、何の根拠もなくメロスや、あるいはセリヌンティウスを無罪放免したとすれば、王が罪人の親族らの圧力に屈して法をないがしろにしたとの世評は決定的なものとなるであろう。

ディオニス王に残された道はただ一つ。

法令や過去の先例をすみずみまで調べ尽くし、この状況下においてメロスを、そしてセリヌンティウスをも死なせずに済ませる方法を探し出すこと。

これは困難な仕事であった。法令の定めをそのまま適用すればメロスかセリヌンティウスのいずれかが処刑されなければならないことは明白な状況で、これを覆すような方法を探し出すことは藁の山に落ちた針を探すような作業である。

ディオニス王は2日と2晩、ごく短時間の食事と睡眠をとったほかはほとんど不眠不休でこの作業に没頭した。全ては法と、そして、2人の善良な人間を救わんとするためである。

王城の資料庫に納められた数百巻にのぼる羊皮紙の巻物のほとんど全てを精査するディオニス王の努力は、しかし、最後には報われた。

百年以上にも渡るシラクス市の歴史の中で、ただ一度だけ、名君と呼ばれる為政者が身代わりとなった者の命を奪わずに済ませた先例が見つかったからである。古い色褪せた羊皮紙には次のように記されている。


・・・差し出された人質は有能な細工師であり、その手により生まれた工芸品はシラクス市の誉れとして他国にも名を響かせ、彼が育てた弟子たちは同市の基幹産業の担い手ともなっていた。この、国にとって有為な人材を処刑することは国の損失につながると判断した王は、法の定めに従って次のような判断を下した。

すなわち、この人質の命を王の掌中に収めることで、処刑と同様に彼の「命を奪った」のである。この有能な細工師は王に召し抱えられ、終生、王お抱えの工匠として安寧にその一生を終えるとともに、多くの優れた工芸品と弟子を世に生み出した。



セリヌンティウスは腕の良い石工である。先例に出てくるような名工とまでは言えないかもしれないが、処刑により命を奪う代わりに、王お抱えの職人として召し抱えることで刑罰の代わりとするという理屈は十分に成り立つ。

つまり、メロスが刻限までに戻らなければこの確固たる先例に基づいてセリヌンティウスを死なせずに済ませることができる。疲労の色が目の下のクマに色濃く表れたディオニス王はほっと安堵のため息をついた。

しかし、一抹の懸念もあった。もし、メロスが刻限までに戻ったとしたら?

この場合、先程の先例は適用できない。メロスは何の技能も持たないただの羊飼いである。彼を王が召し抱えることは何ら国の利益につながるものではない。となると、王は戻ってきたメロスを判決に基づいて処刑しなければならなくなる。メロスが戻ってしまっては、王がせっかく見つ出した法の抜け道も意味をなさないのだ。

王は疲労困憊の中、ベッドに倒れ伏したくなる気持ちを抑え、王城に間者を呼び寄せて命じた。メロスの故郷の村からシラクス市までの道に配下の者を回し、万一メロスが王城に戻ろうとすればこれを妨害せよ、と。

「明日の日没の刻限までメロスが王城に戻らないよう時間を稼ぐのだ。そのためにはどんな方法をとっても構わない。市に通じる橋を落としたり、メロスを捕まえて刻限までどこかに閉じ込めておいてもよい。ただ、メロスの命は奪うな」

王がそう命令を下し、間者が配下の者を招集するために王城を後にしたのはすでに空も白み、夜が明け始めた頃であった。処刑の期限、3日目の朝である。王は人事を尽くした気持ちで寝室のベッドに倒れ伏すと、昼過ぎまで砂のように眠り込んだ。



***



3日目の日没が迫り、セリヌンティウスは牢獄から刑場に引き出された。

刑場の中央には処刑のための十字架が設置され、その周辺をセリヌンティウスの親族や支援者、処刑を見物に来た群衆が取り巻いていた。

メロスの姿はない。

ディオニス王は処刑の刻限が過ぎるのを待ってセリヌンティウスに対して、先例に基づいた処遇――磔にする代わりに王お抱えの石工として終生召し抱える――を言い渡す心づもりであった。

「間もなく日没であるな。メロスは来ないようだ」

刑場の端に沈みゆく太陽を見ながら、ディオニス王は刑吏に縄打たれたセリヌンティウスにそう声をかけた。胸中の安堵の気持ちが表情に出ないよう努めながら。

「メロスは、来ます」

セリヌンティウスは王の目を見据えてきっぱりと言った。その言葉にいつわりはないように見えた。友を心の底から信じている目である。その様子がディオニス王には少しばかりの不安の念を起こさせた。

メロスが現れなければよいのだが。メロス自身のために、その友・セリヌンティウスのために、そして何よりも法によってこの国を治めんとするわし自身のために。王は祈りに似た気持ちでそう心の中でつぶやいた。

西の地平に着地した太陽は今や細い光の線となって刑場の彼方に消え入ろうとしている。空は濃い紫に染まり、夕闇がシラクスの街に降りつつあった。日没。刻限である。

ディオニス王がセリヌンティウスの処遇を言い渡すために立ち上がったとき、にわかに群衆の一隅からざわめきが広まった。人波をかき分けるように進んでくる者がある。

「あれは・・・」

ディオニス王は立ち上がったまま思わずつぶやいていた。

疲労困憊。汗と泥にまみれ、全裸に近い格好で、群衆をかき分け、かき分け、ようやく十字架の前に進み出てきたのは、メロスであった。

メロスが戻った以上、人質であるセリヌンティウスは自由である。直ちに彼の縄が解かれる。メロスとセリヌンティウスは刑場の中央でひしと抱き合った。この3日の間に、互いに相手に一度だけ不信を持ったことを詫びて頬を殴り合った後に。

友のために十字架にかけられることを厭わず、その到来を待ち続けたセリヌンティウス。そして、その信頼に応えて、自ら処刑されるために戻ってきたメロス。2人の友情を称え、群衆はどよめき、歓声を上げた。

ディオニス王はゆっくりとその2人の前に進み出た。歓声を上げていた群衆たちが途端に静まり返る。メロス、セリヌンティウス、刑場を満たす群衆たち、居並ぶ臣下や兵たち。その場にいる全員が王の言葉を待っていた。

「メロスよ、約束通り、処刑の刻限までに戻ったな。お前の身代わりとなったセリヌンティウスはこれで自由の身だ。すでに縄は解かれているな」

ディオニス王は一言一言、言葉を選ぶように語りかけた。その頭の中ではメロスの到来という最悪の事態に対して、王として、法の信奉者として、この事態を収める最善の方法を見出すために必死に思考を巡らせていた。

「さて、メロスよ。次にお前の処遇だが、3日前に言い渡したように王を害する企ては死刑に値する罪である。その刑罰に例外はない。そのため、わしは法に従ってお前をこの十字架にかけなければならない・・・」

ここまで王が話すのを聞いて、群衆の間に、波が立つようにさっと強い感情が広がるのが見て取れた。言い渡されようとする王のメロスへの処遇に対する失望と怒りである。

「しかし・・・」

ディオニス王は言葉を続けた。この刹那に王の頭に浮かんだ一つの考えがあった。自室にこもって羊皮紙の巻物と格闘したときにたまたま目にした法学書の記述。王はそれに賭けることにした。

「・・・しかし、お前とお前の友の、互いを思い合う友情と信頼、わしはそれに感動させられた。わしはお前たちと友になりたい。とはいえ、友だからという理由だけでお前を無罪放免にすることはできないだろう。それこそ単なるえこひいき。法の下では決して許されない行為だ。そこで、わしは友情の証にお前に土地を贈ろうと思う」

居並ぶ人々の間に困惑の色が広がった。王は一体何を言っているのだ? メロスの処遇と土地の贈与に一体何の関係があるのか?

ディオニス王は言葉を続ける。

「その土地はわしの私有地で、シラクスの街の外れにある。わしが王の座を退いて隠居するときに使おうと思っていた土地だ。小さなブドウ畑と羊を一群飼える狭い牧草地があるだけの小さな土地だ。わしはこの土地を今日の友情の証としてメロスに贈与する。そして、お前はその土地の領主となるのだ、メロスよ」

メロスはディオニス王の言葉を聞いて首を傾げた。そして、隣に立つセリヌンティウスの顔を見た。二人とも困惑した表情を浮かべていた。王は構わず続けた。

「お前は今日、この日より、世界で一番小さな領地を持った領主となる。領主とはすなわち王。このシラクスと比べればちっぽけだが王であることには代わりがない。つまり立場は王であるわしと対等だ。そして、一国の王が他国の王に対して刑罰を科すことはできないというのが法の常識だ。王が他の王を罰するための手段は刑罰ではなく戦争だからな。そして、わしとお前は今日より友。友であるお前の『国』にわしが戦争を仕掛けることもない」

ここまで話して、ディオニス王はメロスの顔を見た。そこには純朴で子供のようなぽかんとした表情が浮かんでいた。

「うむ、うむ。わしの話の全ては理解できぬだろう。それでよい。重要なのは、わしはあくまでも法に従ってお前を処遇したということ、そして、メロスよ。お前も、お前の友であるセリヌンティウスも十字架にかけられる必要はないということだ」

王の言葉を聞いて刑場を取り巻く群衆からやっと歓声が上がった。メロスとセリヌンティウスも狐につままれたような表情だったが、群衆の歓声に押されるようにして笑顔を見せて再び抱擁し合い、互いの友情を称え合った。

「やれやれ」

ディオニス王はその様子を見ながら深くため息をついた。法は守られた。そして、この善良なる男たちの命も、また守られた。

王は群衆に取り巻かれて祝福される2人の男たちの様子をしばらく眺めていたが、手近にいた召使いを呼び寄せるとこう命じた。

「メロスのためにマントを用意せよ。あの男はあれでも一国の王。そしてわしの友人だ。この大勢の前でいつまでも裸でいさせるのは忍びないからの」




END


空色チューリップは音楽を作っています。
よければ聴きに来てください。