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#021_ざざっと成育歴②之七

〔思春期から青年期までの変〕


青々と茂る季節の迷路
まだ続いてる…ごめん

 さて、思春期時代の恨み言は他にもあるし、おそらく、あの当時の私に対する恨み言を握りしめているだろう人も存在しているとも思う。ただ、そういったことでさえ、人がこの世へ1人で生まれてきたとしても、決して1人では生きていないっていうことでもあるのだとも思う。
 そして、そういった事が〝どんな人も【完璧】ではない〟ということの〝証〟でもあると思ったりする。今現在の私だからこそ、こういったことをポジティブに捉えるようにはなったが、その最中の時期だったからこそ、自身に限らず、他者に対するマイナスな面ばかりが目についてしまうことになっていたのだろうとも思う。それは、我が母の価値観の影響も大きい。
 母曰く『自分に対する悪口又は陰口は、自身の悪癖に気づくきっかけとなり、そんな自分を改心するいい機会だ』というようなことを聞いて育った。その当時の私は、母のそんな言葉に共感しながらも、結果的には自分を否定する材料や言い訳の材料にするほかなかった。ただ、そんな〝母の教え〟は、ある意味〝ワタシ〟にとっては〝幻想〟にすぎず、私がワタシでなくなってしまう足し算式なレボリューションによって〝乖離〟した状況のもう1人の自分を生産することにもなる。その〝乖離〟への扉が開いたのが、中学1年の頃だ。

さて、過去ブログの中に「ひとり反省会」という記事をみつけたので、転載しておこうと思う。この記事は、#019_ざざっと成育歴②之伍 の記事とリンクする内容になるので、合わせて読んでもらえたらと思う。

☆2016年6月6日から2016年11月28日まで旧ブログ「これまでイマココこれから」より

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2016-07-20 10:10:47 | 私のこと

「 ひとり反省会 」


 中学の頃からだっただろうか…。人の考え方や価値観の違いがあったり、裏表の顔があったり…。

 私は裏表のない、人にいわれたことを間に受ける人で〝社交辞令〟とかもわからない人だ。

 人には表の顔と裏の顔があると知った時から、自分なりに人をタイプ別に分け、〝これこれこういうタイプの人はこういう思考で、こういう言葉が返ってくるからこういう言葉を返そう…〟といった、コミュニケーションをとってきた。

 それがいきすぎて、2個か3個先の相手の感情を想定した答えを相手に伝えるようになってしまったこともことで、私の場合には、コミュニケーションがチグハグになりやすい。

 人のタイプ別に感情をわけ、その時の相手や自分の感情に合わせたコミュニケーションをとるようにしたことが、他者へ更なる誤解を生み、私自身、自分の気持ちもわからない人になっていったように思う。

 〝間に受ける体質〟と〝空気が読めない〟ということを、私の武器にすればよかったことに大人になった今、やっと気がついた。

 〝空気を読めるようになった!〟と思ってたいたけれど、読み間違っていることもわかり、自分はショックを受けてもいるが、もう、そういうのも開きなおろうと思う。

 イチイチ『ひとり反省会』もやめて、その場その場でちゃんと反応をしようと思う。考えないといけない環境に身を置き続けるのはやめようと思う。
 考えるからココロが酸欠になる。ココロが酸欠になるから脳みそのエネルギーが激しく燃える。脳みそのエネルギーが燃えちゃって、更に酸欠になる。
 息ができない環境の中に身を置くのは、海でしか生きれない魚が岩清水の環境で生きてる状態と同じだ。
 私は人類だから肺で呼吸してるし陸上生活。お水に浮かぶ のは好きだけど、今さら魚には戻れない。
 今の環境の下で、人になるべく迷惑かけないように生きていたいだけ。
 ただそれだけなんだけどな…。

 これは4年前の記事になる。S先生との関係性だけに限らず、他者との関係性を変に深読みし、武器にしていたつもりだった。それが、他者に対して優柔不断な人間に感じたり、八方美人だと思われるにいたっていただろうことが、今現在だからこそ、痛いほどよくわかる。
 この記事を読み返していて、これは私の〝心の叫び〟のようにも感じるし、私は、いつだってどんなときだって、がむしゃらに一生懸命に生きていたんだよね。と、いった思いもこみあげてくる。
 その当時は苦虫を噛んだような気持ちで綴った〝叫び〟だったのだろうと思われるが、そんなカッコ悪い時代の自分に対して、今の私は優しい気持ちになれる。ただただ、解らなかっただけだよね。自分の取り扱い方が…。
 ただですね、世の中〝取説〟が大事とおっしゃることが多いのですが、人類における〝トリセツ〟って一生モノではなく、『生モノ』みたいなものだと思わないといけないのよ、ホトトギスって…この場で一言モノ申させてください。


闇への扉をKnock knock

 小学校5・6年の担任(K先生)と中学1年生の頃の担任(S先生)は、私にとって、親以外の大人で一番トラウマになってしまった人々になる。
 小学校を卒業し中学を卒業するまでの約3年の間、メンタルが追い込まれた時は、必ずK先生が夢の中で追いかけてくる夢を見続けていたくらい先生へに対する嫌悪感を感じていた。
 小学校を卒業したことで、K先生とは、毎日会うこともなくなったのだが、住んでいた場所は小さな田舎町。先生が転任しない限りは、会う確率は全くゼロとはいえなかった。だから、なるだけ先生に会わないようにして生活をしていたくらいK先生のことは嫌いだったし、恨んでいた時期もあった。だから、私にとって、K先生が1番のトラウマな人物だと思っていた。が、どうやらそうではなかったことが後に判明する。それが、中1の頃の担任のS先生になる。

 中学1年の頃の記憶が全くないというわけではないのだが、1時期は2つくらいしか思い出せなかった時期もあった。今現在、きっかけがあればその当時の思い出も少しだけフラッシュバックするときもあるし、回顧したからといって体調不良に陥るようなことはなくなった。
 〝中学1年の頃の記憶だけが何故か思い出せない件〟に関して、気がつくきっかけになったのは、30代の頃にあった中学の同窓会でだった。
 中学時代の話題で皆で盛り上がっていた時、皆が話している中学1年生の頃の話題の内容ほとんどのことが自分でも驚いてしまうくらい覚えていなかった。ただ、その時はそこまで深く考えず、頭に「?」マークが浮かぶだけで終わっていた。
 ただ、自身の〝精神障害〟がほぼ治っていなかったことに気がついた数年前、自身の身の上に起きていることが〝霊的体験〟なのか、はたまた〝精神障害〟なのかを突き止めるためと、改めて自分自身を取り戻すために、心身ともにケアを始めてから、記憶がない時期を深く掘り下げてみようと思い、自身の乖離が始まった時期をあえて思い出してみることを試みたことで少しだけ記憶が戻り始めることにはなった。
 ただ、初めの頃は、どんなにその当時を振り返ってみるために脳みそからひっぱり出そうとしてみたが、なぜだか、その当時の記憶は、驚くくらいに綺麗さっぱり覚えていないのか、記憶は残っているけどネガティブボックスに強固な鍵がかかったままで、呼び出すことができないのか…。はたまた、ただただ、記憶として残ってないだけなのか…。ただ、自分にとっては不思議すぎたので、友だちや当時のパートナーに相談してみたりもしたこともある。が、どちらの返事も

「そういうこと自分にもあるよ。昔のことだし、そんなに詳しく覚えてない時期もあるよ…。」

と、優しく諭してはもらったものの、どうしても納得がいかなかった。それは、恐らく自分の記憶に関して一般の人たちより覚えていることが凄まじく細かく多岐にわたっているように自分自身で思っていたからになるが、そういった記憶に関することは、頭を勝ち割り〝脳みそ〟を調べてみたところで比べようもないことだと思われるし〝まぁ、そんなものなのかもしれない〟なんて、軽くすませてしまっていた。
 それにくわえ、閉鎖病棟へ入院をした時から、深く考えすぎてしまう〝癖〟がついてしまっていたことも反省していたことから、元々〝鈍感な体質〟を活かし、あまり深く考えすぎないようにしていたこともあり、気がつくのが遅れてしまったのだった。
 結果的には、今から4年前に、自身の精神障害が何も治っていなかったということに気がついたことで、改めて、自身の記憶を振り返ることをはじめてみたものの、なぜか中1の頃だけが思い出せなかった。そこで、当時の忘れてしまった記憶を呼び覚ますために自分なりに試みたことは、懐かしい場所に訪れてみることだった。刑事モノのドラマや映画で〝現場百遍〟を取り入れてみることにしたのだ。( 私にとっては人生最大の事件ダモノ )
 ということで、ほんの少しでも過去の出来事を思い出さないかと思い、実家に帰省した際には、廃校になってしまった母校に散歩がてら足を運んだ。母校は、市内の中学校が統廃合されることで、一時期小学校になったこともあり、私が通学していた当時の景色からすれば、多少変わってはいたものの、自身の脳みその特性を活かし、当時のビジョンを呼び起こし、現在のビジョンはリアルタイムでみながら、脳内で同時上映状態にし、当時から変わった場所を記憶と照らし合わせ間違い探しのようなことを試みてみた。
 初期の頃は、そんなに思い出すことはなかったのだが、何度か訪れてみると、当時の思い出がふと降りてくるようにフラッシュバックするようになった。思い出した画像や動画から、過去の記憶を呼び起こすことで、新たな思い出までを引っ張りだされないかも試みたりした。そうした試みは案外脳みそに負担がかかるので、少し、無理をする時もあったが、少しだけだが、忘れていた記憶を思い出すことはできた。ただ、なぜ、記憶がなくなるまでにいたったのかは、どうしても思い出せなかった。
 そこで、いつ頃からか〝開けなく〟なっていた中学時代の卒業アルバムを久しぶりに開いてみることにした。アルバムの端から端の細かい部分もこぼれることなく眺めた。
 見覚えのある当時の写真と、同級生や後輩に書いてもらった寄せ書きを読みながら、卒業式の終わった後のことがフラッシュバックし、読みながら笑い泣きすることになった。
 1ページずつゆっくりめくっていった先には、当時の先生方全員からのお祝いの言葉や励ましの言葉が綴られた後、クラス全員の作文が続いていた。 初めに、自分の作文を読んでみたもののなんの手掛かりもなく、結果的に全員の作文を読んでみた。そうしたことで、なんとなくではあるが〝記憶障害〟になってしまったかもしれない〝原因〟がなんとなくわかったような気もした。
 私自身は、S先生のことが〝苦手〟ではあったがK先生ほどまでの〝嫌悪感〟を抱いてはいなかったし、S先生が〝原因〟だと全く思っていなかったのだが、同級生の作文を読んでみてなんとなく紐解けた気持ちにはなったことや、中学2年生になり理科の先生に「お前たちの顔みんな般若の顔にみえる」と言われたらしいことを人づてに聞いたことで、私だけが、S先生に対し何かを抱えていただけではなく、おそらくクラスほとんどの人たちがS先生に対して不満を抱えていたかもしれないと思ったからだ。
 このことに気がつくまでは、私が〝乖離〟することになった原因は、同級生や先輩・後輩など、他者の間で自身の立ち位置がわからずに戸惑っていたことやネガティブな自分を受け入れられなかったことが〝原因〟だと思っていた。でも、それだけじゃなく、実際には〝原因〟となってしまう発端は、中1の頃の担任のS先生だったのではないかという思いが強くなった。 というのも、S先生に纏わる思い出の中の1つの〝象徴〟になるものが天然石の「アメジスト」だということに気がつき、ハッとするような意外なことに気がついたからだった。
 S先生は私たちの担任になる前の数年間ブラジルに海外留学していらっしゃったということだった。日本に帰省後の赴任先が、私の住む町の中学校だったそうだ。ブラジルに留学されていたので、留学していた頃の話をしてくださったり、天然石が手に入りやすかったということもあり、実際、小さな天然石や化石などの鉱物も授業中にみせてくださったことがあったように思う。それと、先生が赴任された間もない頃は、クラスの数名で先生の自宅に遊びに行ったことがあった。
 先生の自宅には、留学していたブラジルから持ち帰った数種類の天然石や化石などの鉱物が置いてあった。水晶などもあったと思うし、他にもいろいろな天然石があったと思うが、私が一番印象深く覚えていた天然石が『アメジスト』だった。そして、小さなアメジストの欠片を先生からいただいたこともあり、宝物入れにいれていたくらい天然石を大切にしていた時期もあった。
 それとは別件で、中2年頃の週一のクラブ活動は『自然科学クラブ』に所属していたことがあった。クラブ活動の時間に、化石や天然石を探しに行く活動の時は、ドキワクしていたくらい天然石や化石などに興味があった。そして〝地層〟が好きだったことや占いに興味がでた高校生の頃は、天然石のルーン占いを購入したこともあったくらい好きだったのだが、そんなことまで全部抜け落ちていた。
 自分が本当に好きだった物事を見失ってしまうくらい、本来の私とは違う自分に成長していたのだろうと思う。誰だって、自分の大切な何かを見失ってしまうことはある。ただ、私の場合には〝主体性〟を失くしてしまっただけでなく、本来の自分ではない、もう一人の自分に成長してしまっていた。
 大人になり、天然石が再熱したのは、2000年代の天然石ブームがキッカケとなった。そのブームにのっかり、一時期は天然石のアクセサリーを身に着けていたこともある。そうしたことから天然石のお店に行くようになり、驚くような出来事に見舞われるようになった。
 天然石のショップへ行ったことがある人たちは御存じだと思うが、ショップ内には、大きなアメジストドームが置かれていることが多い。浄化の石と言われたりもするので、ショップへ行った時は自然と導かれるようにアメジストドームの前に立ってウットリ眺めることになるのだが、なぜだか眩暈が起きたり、気が遠くなって身体が斜めに倒れていくようなことが何度か起きることがあった。それは、石のパワー(〝気〟)にあてられたと当時は思っていたのだが、私の場合には、ただ単に〝アメジスト〟が、S先生に纏わる〝象徴〟となってしまっていたことから〝トラウマ〟となってしまった記憶を呼び戻してしまうのかもしれない…なんて推測すると、乖離していた当時の記憶を呼び覚まさないように、身体が拒否反応を起こしていたのかもしれない。記憶が呼び覚まされそうになるけれど、私のどこかが拒否反応を起こし拒否しているから、アメジストドームの前で、体調不良のような状況が起こってしまっていただけかもしれない…なんて想像してみると、すごく腑におちたのだ。これは、あくまで私の想像の範囲での仮説になるなので定かではない。
 ただ、そういったことに気がついたことで、その後、アメジストドームをみても斜めに倒れることはなくなったし、大きな天然石に酔うようなこともほとんどなくなったのだ。不思議と…。もし、この仮説が当たっていて、アメジストがS先生のトラウマの〝象徴〟となっていたなら、実行犯が実は〝S先生〟となるわけで…。そうなれば、私的には物凄く腑に落ちたりもするのだ。そして、その犯人がS先生かもしれないとわかったからといって、恨みの対象を先生に切り替えることはない。
 むしろ
「なんだー。現在ならば、先生の〝問題行動〟になってしまうし〝完全アウト案件〟じゃん。」
 なんて思うと〝トラウマ案件〟だと思われたことも、なんじゃなくなったのだった。

 〝当時のことを思い出せない件〟に関して、母にも訪ねてみたことがある。母の話によると〝カンボジア難民〟の話を熱く語る先生だったことを教えてくれたのだが、そういえばそんな話をされていたことをうっすらと思い出した。
 そのこと以外でも、先生は様々なことに対して〝想いの熱量〟が半端ない人だったことも思い出した。いろんな意味で〝熱い先生〟(パワハラ体質ともいう)だったことから、先生の〝倫理観や精神性〟又は〝正しさ〟の定義を、まだ、思春期時代の私たちは、毎日のように押し付けられてやり過ごしてだろうなと思う。時折、さんざめく〝怒り〟を浴びながら…。 
 ただ、先生にとって、何が問題だったのかは意味不明だが、毎日のようにホームルームで問題解決のための話し合いが行われ、長引いていたらしいことが卒業にあたっての作文を読んだことで判明したのだった。
 S先生に限らず、中学時代の先生たちは、勉強以外の話をたくさんしてくださったので、印象に残った先生たちの話は未だに覚えているのだが、担任だったS先生の様々な話を私は全く覚えていない。
 当時の私は真面目だったし、弱者救済の話は〝嫌い〟ではないし、むしろ、当時の私は、興味があった分野だったと思うし、先生の話に食いついていただろうと思われるが、何故か全く覚えていない。興味があったことだけれども、本当にスッポリ抜け落ちているのだ。
 母に教えてもらい、なんとなくは思い出せたものの、どういったニュアンスの話だったのかは全く記憶にない。ただ、後に〝偽善〟というキーワードを思い出すことになったのだが、そこで止まっている状態だ。もう、思い出しても〝大丈夫〟なはずだと思われるが、パンドラの箱が開かない状態のようだ。何が私にとってブロックになって、固く閉ざしたままなのか原因がわからないのは至極もどかしいが、強固に閉じたままだからこそ、無理にこじ開けることはせず、自然に記憶が戻ることを待っている状況なので、未解決案件のままとなっている。
 ということで、閉ざされた個人情報を開示することにあたり(自己開示というやつ)それらに纏わる過去ブログをみつけたので、転載しておく。
※noteへの転載にあたり、多少の修正をしております。ご了承ください。

『ワタシの暮らしの忘備録』より、一部転載 
2018-01-31

「閉じた心の蓋」

閉じた心の奥底にある
たくさんの想い
苦しみも辛さも
楽しみと嬉しさに
すり替えたから

今大人になって
私は自分の想いを
きちんとアプトプットできず
今更思春期を迎えた

お母さんもお父さんも
私を大切にしてくれたけど
私は勘違いもいっぱいして
大人になった

お母さんの思い描いた
子どもになりたくて
いや、なりたかったワケじゃなく
誰かにきちんと
『頑張ってるね』と
言って欲しかっただけ
私の辛さや苦しみを
認めてもらいたかっただけ

だけどお母さんは
私のような子どもは
『ノイローゼとか
 胃潰瘍とか
 ストレスなんてない』
そういうふうに
切り捨てられた。

その時、私の心は閉じた
だからいつも
おバカさんで笑ってる
そんな私が誕生した

生きてるような
他人事のような人生を
生きてきた今だから
私がワタシを生きていくために
閉じた心の蓋を開けて
手放そうと思う
自分らしさと向き合いながら…。

(2009.04.10)※多少の修正をしています。

 この詩は、『ワタシの暮らしの忘備録』2018年1月13日のブログの記事の一部になる。2009年4月10日に書いた詩のようだが、これって一体どこに書き残していたものだろう…。ちょっと思い出せない。
 2009年の4月は、閉鎖病棟へ入院することとなる一か月弱前の日付になるのだが、おそらく、自分を振り返る意味で、過去の手帳や日記などに残しておいたものだろうと思う。自身の過去を振り返るにあたり、それらを読み返している時、この詩をみつけたことから2年前の1月18日のブログを綴ったのだろうと思われる。そして、この詩を読み、溢れたのだろうことを言語化してあるので、その日のブログの続きの内容も転載しておく。

『ワタシの暮らしの忘備録』より、一部転載 
2018-01-31

※「閉じた心の蓋」について

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 この当時は、まだ2次反抗期で思春期のやり直しだと思っていました。昨年からのすったもんだ劇場で、私は胎児性の愛着障害だったんじゃないか、そして、第1次反抗期も第2次反抗期もやりきることなく成長してしまい、認知の捻れや誤学習によって、更に私は拗れてしまったのだと気がつくことになりました。

(※胎児性の愛着障害という言葉は診断名ではありません。あくまで、一部の関係者の中で使われている語彙です。この件に関しましては、神田橋先生との治療についての章で詳細を綴りたいと思いますので、今しばらくお待ちください。)

 そんな私だったからなのか〝運命の悪戯〟なのかはわかりませんが、過去を振り返ってみると、私は案外〝サイコパス系〟の人か〝ジャイアンタイプ〟の人に意地悪されたり、弄られてきたように思います。
 もちろん、私だって他の人を傷つけてもいたと思います。言葉を大切にしてこなかったし、言語体力低すぎたし、真直ぐすぎたし…。
 
 心の蓋を閉じた時は中学生の頃でした。自分の部屋の外ではおバカなキャラクターを演じて、部屋の中ではネガティブ全開で日記に吐き出していました。
 映画『インサイドヘッド』の主人公ライリーの頭の中の『カナシミ』や『クルシミ』のようにネガティブな思いを受け止める係とポジティブな思いを受け止める係と分けて、ネガティブなことがあった時は『ネガティブの係』にまかせて思考停止の状態にしていました。それだけ、なにか刺激をうけた時に自分の中で上手く噛み砕けなかったのだと思います。
 その当時から、いくら考えても自分で解決できないことは保留事項にするようにしました。きっと、大人になれば私にも解る日が来る日と思って…。 だから、その当時の私は早くおばあさんになりたくて仕方がありませんでした。で、昨年末の死ぬかと思った荒治療とそれからのすったもんだ劇場やら謎のシンクロ攻撃やらでどうやら私は『治った』ようです。
(※治ったという語彙はあくまで、難癖が治ったということです。)

 きっと、観察者の皆さまはわかっているはず(ブ)なんて、いうかやるべき時期にやってたほうが本人の苦しみは軽いでしょう。でも、本人が受け止められる状態でしかも周囲のサポートが整い、はじめて治療に臨んだほうが本人にとって負担が少ないんだとシミジミわかりました。
 自己開示を促すことはなくても、自己開示したい人は勝手に開けるものなのだと思うのです。だから、治療を早めようとか早く治すために、こじ開けようとするから、なんだかおかしな事態になるのだろうとそう思いました。
 刺激がある度に〝殺意が芽生える〟ことも少なからずはあったし、人に向けてはいけないと思いながら自分を責めるしかなかった時は、本当に苦しくて仕方なかった。
 自分の中に〝鬼が住んでいる〟とそう思ったくらいです。百会から指3本分あたりの両隣から角が生えたと自分でも思うくらい、怒りに震えました。あー、今私の顔が般若になってる。と感じたくらいでした。角が生えるって例えを体感できましたが、もう、いい加減勘弁してほしいです。みえないところからの猫パンチ治療。。。乙。

 いやはや…。自己開示しながらも、全貌を見せないスタイルの書き方なので、何を言わんとするのかわからなくて当然だと思うが、あえて、この記事は転載することにした。
 転載した記事の文章中にもあるように、トラウマを解消する場合に〝怒り〟の作用を用いて、自己開示させたり、無理にこじ開けようとすることを試みられていたんじゃないか…と勘ぐっていたこともあり、こうした記事を残していたまでになりますが、この件に関してはこの記事を綴り、約2年経過した現在、2年前の自分の意見となんら変わっていない。
 『思い出したくても思い出せない案件は無理に思い出す必要はない』といった思いはより強くなっているくらいだ。
 私の場合には、頑なに自らが拒むこととなってしまっていたのは、ただ、ただ、自分が怖がりだからだと思っていた時期もある。でも、実はそうではなかったことに気がついた。
 人は頭だけで生きているワケじゃない。身体もあるからこそ、心だけの問題を頭だけで解決させることはできないし、又は、身体からだけのアプローチでも、心身の不具合は解決できないのだということを身をもって体験したからだ。
 人も生物だからこそ、現況で生き延びるために、今現在の自身の状態に表れている物事は氷山の一角にすぎない。似たような症例の個体に対し、同じアプローチで癒される人もいれば、どんどんダメになっていくケースもある。じゃあ一体何が違うのか。何がダメなのか? 何を一体誰に伝えようとしているのか? 何かの刺激により、自分の裡から、その時々で滾々と湧き上がってくる泡みたいな思いが何度も蘇るようならば、それは、過去に見過ごしてきた物事の状態像で、それが〝現在の自分〟だと思えば、なにか視えるものはあるように思うがどうだろう?
 未来はあるけど決まってはいない。だからこそ、今自分に何ができるのか、何をすれば自分は安らげるのか。それは、本当に過去の自分や他者が悪かったからなのか? そういったことまでもが浮き彫りになってしまう。振り返らないということは、悪いことばかりではなく、些細な幸せでさえ取りこぼしてきた様なものだ。そういうことに1つ1つ気がついて行くだけでも、強固に閉ざされてしまった心が、いつの間にか勝手に開かれるようになるのだと思う。
 止まない雨、明けない朝、終わりのない泥仕合がないように、いつか物事には終わりがあるし、終わらせることもできる。ただ、それを、自分以外の誰かの意図で開かれてしまうことは、果たして良いことだと言えるだろうか? それこそ〝エゴ〟だと思うのだ。
 
 




 


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