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【エッセイ集】想ひのたけ Vol.10  『夏が苦手なそのわけは』


 今年も“夏”が始まった。
 元々、夏が苦手だ。お暑いのがお嫌いなのである。
 四十度近くまで上がる気温で体力もといHPがゴリゴリ削られるし、夜は夜とて熱帯夜に悩まされる。ええい、ままよとクーラーでガンガン冷やせば、このご時世、急上昇する電気代で爆死は必至である。暑いのが夏。だからこそ苦手なのだ。
 とはいえ、子供の頃からずっと、というわけでもない。
 ラジオ体操にプール、昆虫採集と家族旅行。夏休みはやっぱり楽しかった思い出が多いし、一番好きな季節だった。じゃあ一体いつから苦手になったのだろう。記憶を探ってみると・・・・・・。

 あった。
 おそらくは、コレだろう。

 『部活動』


 コイツのせいである。間違いない。

 遡れば、小学三年生で少年野球チームに入った。その頃からすでに、炎天下の練習やら試合にどっぷりと浸かっていた。夏休みだろうがなんだろうが自転車に乗って学校まで行っていた記憶があるから、ほとんど毎日練習していたのだろう。まったく良くやるよ。
 中学校ではテニス部に入った。野球では、自分には取るのも打つのも才能がないということを嫌というほど味わったから、打つ面積の多いラケットならどうか、という淡い期待があった。結局のところ、小さいボールの呪いからは離れられなかったのだ。
 夏休みという期間は運動部にとっては集中して朝から晩まで練習できるまたとないチャンスなわけで、しかも大きな大会も開かれるから気合いも入る。暑い最中を、みんな汗をかきながら走って、飛んで、あの小さな玉を追いかけるのだ。
 熱中症で倒れる奴だっていたように思う。けれどそんなことは些細なことで(今では大問題だろう)、とにかく大会で勝ち進むためにはどうするかしか頭になかった。休憩時間に飲む水筒の中の冷え冷えスポーツドリンクが死ぬ一歩手前の美味さだったことは金輪際忘れない。
 男子も女子も真っ黒に日焼けしていたし、「あちーアチ〜」と言いながら、目標に向けて頑張っていたものだ。

 そうだ。頑張りすぎたのだ、僕らは。

 水は喉が渇く前にきちんと時間時間で飲むべきだし、天気予報で「今日は危険な暑さです」と報じられたらクーラーガンギマリの室内でヘラヘラしているべきだったのだ!僕らは!

 ほとんどの部員が(野球もテニスも)、高校進学とともに運動から離れていったことを僕は知っている。もちろん、自分もしっかりそのうちの一人である。
 当方のその後の足取りといたしましては、美術部やら軽音楽サークルやら、炎天下のグラウンドからは自主的に遠ざかって遠ざかって今に至る。
 なお、後悔はこれっぽっちもしてはいない。愛も恋も友情も、真夏のグラウンドには落ちてはいなかった。少なくとも僕の人生においては。

* * *

 しかしながら、忌むべき『体育系部活動』からもしっかりと学んだこともある。それはズバリ、
“根性・根性・ど根性”の精神である。どこぞの黄色いカエルが好んで使っていたこの言葉、自分の人生においては時に元気の出るおまじないのように、そしてまたは自分自身にかける呪詛のように機能しているのだ。

 精神論とか根性論とか、今の世で口にしようものなら時代遅れと蔑まれる類のもので、もっとスマートに頭を使った対処を求められる場面が多い。体力をいかに温存して一週間を乗り切るかが重要なのだ。みんな休日を目一杯楽しみたいのだから。
 ここに、どうしても僕は生まれ育った時代と現代とのギャップを覚えてしまう。つまりは四十代のおっさんが、二十代の若手に必死になって教えを乞わねばならぬ部分がここにこそあるのだろう。
 何事も、根性だけでは乗り切れない。「押して駄目なら引いてみろ」的な、もっと効率やら機能を重視して物事に取り組むこと。そうしてはじめて、みんながみんな個人の幸福を掴み取ることができる。そして真実の幸福はきっと職場には無い。会社が、仕事が、ソレを与えてくれるという幻想はもはや遠い遠い過去のお話で・・・・・・。
 愛も恋も友情も、やはりデスクとデスクの間には落っこちてはいないのだろう。かりそめ、それはあるのかもしれないが。それが幻想たるゆえん。

* * *

 愛も恋も友情も、ついでに幸せも、そんならいったいどこに落ちているのか。身体をボロボロにさせて努力した先か、頭を使ったその先か。
 僕は、この頃思うのだ。
 愛も恋も友情も。それら幸せの形の真実は、たぶん自分が死ぬまでわからない。
 一生懸命生きて、生きて、生き抜いて。嫌なこと辛いことも乗り越えて、文字通り山あり谷ありの人生を走り切ったその先に待つ、最期のとき。
「あー、なんだか色々やりきったな。それもようやく終わるか、ほー」
みたいな、長い溜め息。そんな溜め息をつけたなら、自分はそこで「幸せ」を感じられるような“予感”がしている。
 美味しいものを食べても、楽しい時間を過ごしても、高価な買い物をしても、三日も経つと気持ちが「スッ」と落ち着いてしまう。満足のゆく文章が書けても、翌日にはまた自信を失くす。
 そんなこと、もうずーっとずーっと繰り返してきた。それは芸術家でもスポーツ選手でもきっと同じだろう。人間には満足の行く頂点などないのだ。生きている限り、高みへ高みへと望み続ける。
 だからきっと、安心もしない。
 果てしない望みから解放されるのは、きっと人生最期の瞬間なのだろう。
 あぁ、蝉が鳴く。
 何十年と土の中深くで幼虫として生きてきた蝉が、大人になって短い一生を鳴く。次の命に繋ぐために、一生懸命に鳴いている。彼ら一匹一匹の人生最期の瞬間が、日本の至る所で激しく激烈に訪れている。

 今年も夏が始まった。
 苦手だろうがなんだろうが、乗り越えなければならない夏。
 ほんの数ヶ月の苦しい暑さを我慢することくらい、人生の苦難に比べれば容易いことだと思えれば、どうにかなる気がしてきた。

 けれど。電気代の高騰だけはどうにもならない。ままならない。
 だからやっぱり夏は、苦手である。

(了)


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