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今日は8月6日

8月6日。
朝、8時15分に近所の小学校から流れてきた黙祷の合図と一緒に黙祷をした。

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信じられないこと、信じたくないことだけれど「8月6日」が何の日か「わからない」と答えるインタビューがたまにテレビに流れたりする。

時間の流れからすると、過去には違いない。
しかし、人類にとっては過去の問題でも無い。
それこそ東西冷戦の時、核の時計の針が12時に近づいたり離れたり、緊迫感があったが、今でも実のところ核兵器がなくなったということにはならず、いつ何時終わりを迎えるかもしれないというのはごくごく普通に存在することだと思う。

それなりに生きてきて、自分の中の芯として持っている事がある。
それは、
「死ななくても良かったはずの人が、死んでしまうような事が起こらない世の中にしたい」
ということである。

自分の人生の中で、その事にエネルギーを注いできたのは間違いない。そこの信念は譲れない。

自分みたいな人間に何が出来るだろうか?
それは、ずっと幼い頃から考えていた。

1982年8月6日に、小学校の体育館で「ピカドン」という映画を観て、衝撃を受けた。それ以降、戦争の話を祖母に聞いたりした。

1945年8月6日、祖母は福山にいた。祖父が海軍で潜水艦に乗っていたものの、かなり重たい病気にかかり入院していたため、当時疎開していた兵庫県から看病のために出向いていたからだ。幼い父と叔父、叔母を連れて福山の病院で祖父に付き添っていたらしい。
8時15分、福山でもスゴイ衝撃があり、棚の上のものが落ちてきて大変だったと祖母は話していた。広島の端ではあるがそれだけすごかったのだ。
祖父は、その後8月14日に亡くなった。

あの戦争がなかったら、おそらく祖父は生き続けていただろう。好き好んで戦争に行ったわけでもない。消防士を続けていて、それなりの年齢だから赤紙は来ないと思っていたところに来たという事らしい。

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考えに考えた末、人が平和について考える土壌を作ることの出来る仕事として、教師になることを目指すようになった。
そして、教育大学在学中に、阪神淡路大震災を引き起こした兵庫県南部地震が起こった。1995年のことである。
このとき、
「関西には地震が来ないから大丈夫」
などという話は普通にあった。
それから、阪神淡路大震災の数年前にロサンゼルスで大地震が起こったときに高速道路の高架橋が落ちて、クルマが下敷きになっている映像などが流れたりしたときに、
「日本の建築物は、地震のことを十分に考慮して建築されているから、あのようにつぶれることはない」
などという話もあった。
どちらも、大きな間違いだった。

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何故、人は間違ったことを信じるのだろうという事を考えたときに、科学的な思考やリテラシーというものを無視したり、無知による安全側に偏った考え方や行動を取るという事を知った。
それこそ、教育の大切さを痛感した。
そして、知らないことは怖いと思い、地質学を専攻することにした。

そして、教師となって教壇に立つことが出来る様になった。
考える事の出来る、より良い社会を造ることの出来る、そんな人が自分の元から一人でも多く出て欲しいという願いの元に。

果たして、自分の信念に基づいた仕事が出来ているかというと、まだまだほど遠い。
残念なことに、自分自身も心が折れてしまった。
そこにきて、今の日本のこの状況である。
基本的人権って一体何だろう?というような世の中になってしまっている。
おそらく、多くの人が亡くなったとしても、数としてしか捉えられず、一人ひとりの方の人生に想いを寄せるような事が無いだろう事を考えてしまう。
自分の今の状況もあるが、なんとも無力感で覆い尽くされて、生きる気力も無くなってしまう。

立ち直って、この考え方の元に仕事が出来るかどうか、残念なことに甚だ疑わしい。そんな世の中になってしまっている。

これまで以上に色々な事に思いをはせたり、考えたりした8月6日であった。

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