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iPhoneやiPadのカメラとコンパクトデジカメとの違いについての考察

以前、こんなnoteを書いた。
この1ヶ月、自分が書いたものの中で一番読まれている。

たくさん読まれる中で、自分もこの記事を何度も読み返していた。
そして、なんとなくコンパクトデジカメは、
「もう時代の中で置いてきぼりの存在になったんだ」
ということに気がついた。

ちょっと、とりとめもない感じになるかもしれないが、気付きをまとめてみようと思う。

今の携帯端末のカメラの位置づけは、ものすごく広い意味での「筆記用具」なんだと思う。

ここで言う「筆記用具」とは、いくつかの要素を含んでいると考える。
1.身近にあるもの
2.気軽に使えるもの
3.自分の記憶代わりに出来るもの
4.他者と情報の共有が容易に出来るもの

一番端的な例が、紙と鉛筆。
アナログではあるが、自分の頭の中の情報をアウトプットしたり、情報を記録したりするものとしては、未だにナンバーワンではないか。

カメラも使い方によってはそういう使い方をしている人もいた。
工事現場などでは、記録を行うのに一定の需要があった。
また、自分もそうだが自然科学の世界でフィールドワークをもとに研究するような場合、カメラはなくてはならない必須のものだった。
ただし、その時代の一般的なカメラは、やっぱり記念写真であったり旅行の記録であったり、特別感のあるものであり、気軽に使えるものというには一つハードルが高かったような気がする。
だからこそ、気軽に使えるカメラというマーケットが存在したわけで。
その筆頭は、自分も最近気に入って使っているオリンパスペンだったり、コンパクトカメラだったり、行き着いたところは「写ルンです」だったりする。

それが、世の中の情報化社会の進展で、デジタルツールが身近なものになった。
とくに携帯電話は、人との情報の共有に対するハードルをかなり低くした。
音声通話だけだった世界から、文字情報のやりとりへ、そして携帯電話にカメラが付いてメールに画像を貼り付けることが出来る様になった。

思い出すのは、1998年のこと。
自分も含めてインターネットを自由に使うことの出来る環境に所属していた。
Windowsは95の時代。
MacもOSは7だったか8だったか。そんな時代。
ある日、「デジカメを買ったから、試しに撮った画像をメールで送るね」と言われて(そう、直接口で言われて)、しばらくするとメールが届いた。
そのメールを開けた途端に、パソコンは動かなくなってしまった。
再起動しようにも再起動しなくなり、復旧するまでにものすごい時間と手間が掛かった記憶がある。
CPUはPentium。クロック数は150MHZだったような。メモリも標準が16MB。メモリの載せ替えなんてしていなかった気がする。そして、HDDの容量はまだ1.4GB。これでも大きい方だった。外付けの2GBのHDDやMOドライブをSCSIでつなげて、大満足していた時代。
当時35万画素のデジカメの画像がメールに添付されてやってきただけで、PCは止まってしまうような時代。
20世紀末は、まだそんな時代だった。

自分でもカメラ付き携帯電話を始めて購入したのは2003年だったような。デジカメは既に持っていたし、デジカメを使うならPCが有れば良いと思っていた。
携帯電話のカメラは画素数も小さく、携帯電話の画面で見るのにぎりぎりの画質ではあったけれど、画像を共有する事の便利さには画質が問題になることはなかった。
そして、世の中の携帯電話にはカメラが付いているのが当たり前になり、そしてiPhoneの登場で一気にスマートフォンの時代へと移り変わった。
そうすると、スマホのカメラで撮った情報をすぐさま共有出来るようになる。この間、携帯電話の回線もアナログからデジタルへ、そして3G、4Gと進化して、こうそうく通信網があっという間に広まった。
あのFAXモデムでピーピーガーガーやっていた時代とは大違いである。
さらに、動画を撮ったものもすぐその場で確認したりすることが出来るようにもなった。

そんなスマホも一人1台は当たり前。
タブレット端末も含めると、一人数台持っていてもおかしくない。
スマホやタブレット端末に付いているカメラの性能も、1000万画素を超えてきている。
そして、その画像に書き込みをしたりしてやりとりするのは当たり前になった。
1000万画素を超える画像ファイルを転送し合ったり出来るだけのインフラが、普通に身の回りに存在している世の中。
かくして、携帯電話・スマホのカメラは誰もが普通に持っていて、誰もが普通に身近に使う、筆記用具レベルのものへとシフトした。

それに対して、身近なものを撮る道具としてのコンパクトデジカメは、何も価値の変革が起こっていない。スマホにひたすら使い途を侵食され続けているだけだ。
ここに、コンパクトデジカメの存在意義というものが怪しい状況へとつながる。
昔作っていた多くのメーカーも、どんどんなくなってしまった。
メーカー自体がなくなってしまったものまである。

最近、カメラ好きの自分としては、カメラを持って街を出歩くのが楽しくて仕方がない。というか、今の自分の状況において、唯一の遊びでもある。
iPhoneでも、遊びの一つとしてカメラを扱う事も出来るが、やっぱりカメラを持ってシャッターを切る方が楽しい。
今は、仕事を休んでいるため、カメラの出番が減っている。
仕事でカメラを使うのは、ごくごく当たり前のことであり、今でも必要不可欠なもの名のは間違いない。それこそ、スマホではまだまだ不十分なことも多々有る。

カメラは、趣味の世界はもちろんのこと仕事という分野においても、普通に用いられるものになっている。
そういう世界での使い途というところに何か訴えかけるようなものが欲しいと感じている。
だからこそ、写ルンですが今売れているのではないか。

じゃあ、カメラができる事って何だろう?

そんな事を一ユーザーの自分が暇つぶしに考えたりしている。
おそらく、メーカーの人たちはそんな事くらいわかっているだろうし、考えているんだろうなぁ。

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