それは、どうしようもない恋だった。
地味女子×男子高生
――――
店に一歩踏み込めば、そこには見渡す限りの『本』の山だった。古書独特の匂いがして思わず胸いっぱい空気を吸い込んだ。左右に乱雑に積まれた本はジャンル分けされておらず、ただ『邪魔にならないように』と適当に横へよけられている。
町の隅の隅にあるこの古本屋が私のお気に入りの場所だ。落ち着いた照明の店内は外より時間がゆっくり流れているようで、ここにいるといつの間にか一日が終わっている。気に入ったものがあれば買うこともあるが、何がどこに置いてあるか分からないので気に入るものと出会うのは稀だ。それがまた宝探しみたいで楽しい。普通の本屋にはないわくわく感がある。
私はいつものように適当に山の上から本を手に取る。……詩集みたいだ。本を開くと見開きにあたたかい絵といっぺんの詩が書かれている。やわらかな言葉が白いページの上を踊る。言葉をなぞっていけば胸の奥に懐かしい記憶が灯った。ページをめくるたび心のはしっこがふにゃふにゃと柔らかくなっていく。
――詩集も面白いかもしれない。ふとそう思った。昔は学校の教科書に書いてあるよく分からない詩を音読させられるだけで、その内容を理解しようとしなかった。いや、理解じゃない。『詩を味わう』ことをしなかった。テストのために暗記するだけで、心で感じようとしなかったのだ。
大人になった今、頭を空っぽにして読むからこそ分かるものもある。……この本とは、出会うべくしてであったのかもしれない。
「……今日はこれにしようかな」
私は優しい色の本を手に本の海を渡る。気の向くままに手に取ってみるが、この本以上に心惹かれるものには出会えなかった。そのまま店の奥深くまで歩いていくと、小さな木のカウンターが見えた。
少し低めのカウンターの傍にはいつも男の子が座っている。高校生くらいの学生さんだ。いつも紺色のエプロンをつけている。黒い無造作な髪に黒縁眼鏡。レンズの向こうに見えるたれ目がちな目元と泣きぼくろが何となく大人っぽい。
男の子はいつも静かに本を読んでいた。その姿を眺めるのがここに来る一つの楽しみだった。本を読む彼の姿はとてもこの空間に馴染んでいて、美しい芸術を見ているような気分になった。時間を忘れてここにいてしまうのは彼を見つめている所為でもある、かもしれない。
……特にどうにかなりたいわけじゃない。仕事で疲れた心を癒しに来ているだけだ。恋に恋する年はとうに過ぎている。馬鹿な夢は見たりしない。『想い』だけでどうにかなるわけじゃないと知っているから。
「――こんにちは、来てたんですね」
静かな空間に声が響いた。変声期後の少し掠れた声だ。俯いていた視線を上げると、本から顔を上げてこちらを見る彼と視線が合った。……どうやら見つかってしまったらしい。本の山から出て彼の傍に近づいた。
「こんにちは。今日はこれをお願いします」
私は手に持っていた本をカウンターの上に乗せた。彼は慣れた手つきでカバーをかけていく。
「詩集、ですか……。珍しいですね、いつもは小説が多いのに」
「なんとなく手に取った本がこれだったんです。久しぶりに詩を読んだんですが、詩集も面白いなと思って」
「そうですか。俺も詩集は好きなんで、そう言ってもらえると嬉しいです」
彼はそう言って嬉しそうにほほ笑んだ。私もつられて笑みを返す。
彼が詩集好きだってことは知っていた。何故ならいつも読んでいる本が詩集だったから。今もさっき読んでいた詩集が膝の上に乗っている。分厚い――洋書の詩集だ。何が書いてあるかさっぱり分からないが、彼はこれが読めるらしい。さすがここの店の子、といったところだろうか。
「――――。」
彼の膝の上の本をぼーっと眺めていると近くから熱のこもった視線を感じた。少しためらいながらも顔を上げると、黒縁のメガネの向こう……黒い瞳が熱っぽく私を見つめていた。
「…………。」
その視線に肌が粟立つ。その熱の強さに、想いの強さに気圧される。言葉はない。いや、言葉にしないからこそ彼の強烈な感情が伝わってきて何とも言えなくなってしまう。……私が彼を見つめる目と違う。何度も叩きつけられる彼の激情が、張り裂けんばかりの劣情が『私』を壊そうとするのだ。
……私は、恋に恋する乙女ではない。感情だけでどうにかなるとは思っていない。自分の齢も、容姿も分かっている。彼とは何もかも違いすぎて、『もしも』を考えることすら烏滸がましい。
――私はそう、思っているのに。
「ありがとう。いつもお店のお手伝いをして、偉いね」
だから私は、逃げた。彼の想いを正面から受け止められなくて、『子供』だって言い訳をして彼の想いを本気にしなかった。そうすることしか出来なかった。毎回毎回、あんな目で見つめられれば私だって逃げ出したくもなる。それでもこの本屋に足を運んでしまうのは――……あの激情の意味を、理由を、知りたいからだろうか。自分のことながらよく分からなかった。
無理に笑みを作って彼の差し出す本を受け取ろうと腕を伸ばしたとき、急に強い力で腕を引かれた。体が前につんのめる。慌てて反対の手をカウンターに置いて体を支えた。
「っ……」
気が付くと、目の前に彼の顔があった。吐息が触れるくらいの距離。レンズの向こうに見える彼の顔は何か堪えるような悲痛な顔だった。ずきり、と胸の奥が悲鳴を上げた。
「貴女にだけは、『子供扱い』してほしくない」
絞り出すような声だった。私の腕を握る力が強くなる。瞳の熱量が上がる。怖くなって思わず後退ろうとして……逆に体を引き寄せられた。
「――逃げないで、ください。俺から、逃げないで」
懇願する声は、甘く、とろけた。
「――――っ!」
頭が白く染まる。言葉が出ない。何を言われたのか、何が起きているのか分からなかった。
この年齢の子が出すような色気じゃない。甘く眇めた目元のほくろが怪しげな色香を醸し出している。……ダメだ。このままじゃダメだ。早く逃げなきゃ。そう思うのに、腕をつかむ手は外れる気配がない。
「ねぇ、知ってましたか? 俺、本当は一日中店番をするような『良い子』じゃないんです」
そっと、暖かいものが頬を撫でる。吐息が近くなる。彼の瞳が近くなる。心臓がどくどくと早鐘を打つ。頭がくらくらする。朦朧とする意識の中で、彼は今にも泣きだしそうな顔をしていた。
「貴女がいるから、貴方が来るから、ここにいるんです。貴女に会いたいからここで待っているんです。子供っぽく見えないように眼鏡で顔を隠して、話し方も合わせて。……貴女に少しでも『男』として、見てもらいたくて」
握られた腕が熱い。火傷しそうだ。彼の熱で焼け焦げてしまう。彼の感情で私が溶かされる。逃げたいのに、逃げなきゃいけないのに、近づく瞳から、目が、逸らせない。
「……どうにもできない理由で、俺を、拒まないで――」
吐息が重なろうとした瞬間、後ろでガランガランとドアベルが鳴った。
「!!」
驚いて小さく飛び上がってしまった。……その時、体中を襲っていた金縛りが解けていることにも気が付いた。
逃げるなら今しかない。私はお金を机に叩きつけるようにして置き、彼から本をひったくるように奪い取って出口へと走った。
後ろから何か声をかけられたような気がする。途中、誰かにぶつかったような気がする。でも今の私にそれらを気にする余裕はなかった。遅まきながらも心臓が嫌に激しく鳴るのを感じる。冷や汗が止まらない。呼吸が荒くなる。視界がチカチカと爆ぜる。
「なに、っあれ……」
気づけば知らない場所にいた。膝に手をつき荒れた呼吸を整える。手が、足が、震えだして止まらない。立っていられなくなってその場にずるずるとへたり込んだ。
「どう、しよう……」
夢は見ないって決めたのに。現実はそう上手くいくはずないって知ってるのに。私の中の何かが音を立てて崩れ去っていく。
見上げた空は青くて、無性に泣きたくなった。
「……どうして、好きになっちゃったのかなぁ」
――それは、どうしようもない恋だった。
Unsplash(https://unsplash.com/)
photo by Eli Francis
お題.com(https://xn--t8jz542a.com/):「目元のほくろ」
最後までご覧いただき、ありがとうございました。 スキ!♡(いいね)を押していただけると嬉しい気持ちでいっぱいになります。 (スキはnote会員でなくても押せます!やったね!) いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます。