続・恐怖の鼓動は恋愛に似て。
続きです。
―――――――
いつの間にか電源が回復していたスマホを片手に十数分。ようやく目的地にたどり着いた。
郊外から少し離れた小高い丘の上に立つ建物。現代的というか変わった形をしているその建物が今日の目的地である美術館だ。大きな門の横には今日の目的である個展の立て看板が置かれていた。
「……あれ?」
よく見ると、看板の近くに誰かがいた。
黒いボサボサの髪、ダボっとした柄シャツ、細身のスラックス。太陽の下で見るその姿は何処からどう見ても不審者にしか見えない。どこか見覚えのある背の高い男が、看板に背を預けて気だるげに立っていた。
……気が付けば私は全力で走りだしていた。
「――四辻さん!」
「ぐッ……!?」
勢いのまま四辻さんに抱き着いた。ちゃんと体温を感じる。夢じゃない。会いたくて会いたくてたまらなくなって白昼夢を見てるわけじゃなかった。嬉しくて抱きしめる腕に力が入る。……四辻さんって意外としっかりとした体だ。耳を押し当てると聞こえる心音が少し早くなった気がした。
「――はっ? 何、なに!? お、お嬢さん!? どーしてここにいるんです!? ってか、オレの名前!?」
「四辻さん、やっぱり四辻さんだ!! 会いたかったですよー!」
「はいぃー!?」
嬉しくて嬉しくてたまらない。顔が見たくて視線を上に向けると、すごくびっくりしたような、とても困ったような顔をしている四辻さんの顔があった。
私を見て何か言おうとした四辻さんだったが、持っているスマホから声が聞こえて慌てて対応している。どうやら電話中に突撃してしまったらしい。少しだけ申し訳なくなった。……せめて電話が終わってから抱き着くべきだったね、うん。
「……あぁ、いや、違う違う。そんなんじゃねぇって。ちょっと知り合いに――、だから違うっつってんだろ! おま……だから、人の話を――あぁ、クソッ。アイツ切りやがった……ッ!!」
四辻さんはそう言うと盛大に舌打ちをした。そのままスマホを乱暴にポケットにねじ込んだ。
「おぉ……」
あの四辻さんが舌打ちをしている。それがなんだか妙に感動した。いつもの紳士的な態度からは想像できない。太陽の下にいる四辻さんは、光で元気になるのかいつもよりワイルドだった。新しい発見だ。
「――で、だ。なーんでお嬢さんがここにいるんです。ってか、記憶は? なんで自分の名前を憶えてんですか?」
「そんなの、私だって分からないですよ。四辻さんは『忘れる』って言いましたけど、私ぜんぶ覚えてますもん」
どこか拗ねた口調になってしまった。……でも、仕方ないと思う。あんな別れ方をして、しかも『全部忘れる』だなんて言われてとても悲しかったのだ。あの気持ちも全部忘れちゃうんだって思うと後悔してもしきれなかった。
なのに現実に戻っても忘れてなんかいないし、覚えてるからこそ辛くて苦しくてこれからどうやってこの気持ちと向き合えばいいのか美術館までの道を歩きながら悶々としてたのに……四辻さんを見る目が恨みがましくなってしまう。
「『全部覚えてる』、ねぇ……」
そんな私を見て四辻さんは苦笑いを浮かべながら私の頭を軽く叩いた。まるでワガママを言う子供を宥めるような扱いに少しだけムッとした。……こんな事で拗ねるなんて子供っぽいとは思うけど、私だって好きな人に子供扱いされたくはない。
私が不機嫌になったことに気づかないのか、四辻さんはそのまま困ったように頭をかいていた。この事態は四辻さんも想定外みたい。四辻さんは本当に『全部忘れる』と思っていたみたいだ。
「……まぁいいでしょう。そっちは考えても分かんねーですから。で? じゃあなんでここにいるんです? まさか、自分の後をつけて……」
「ち、違います! そっちは偶然ですよ! 私はもともとこの美術館に用事があったんですから!!」
私は慌てて叫びながら看板を指さした。そこには個展のタイトル『人の奥に潜むもの』の文字が書かれていた。
「用事? ……あぁ、お嬢さんはこの個展を見に来たんですか」
「はい。それで、途中で迷って……ってことです」
「なるほど……運が良いのか悪いのか」
四辻さんは少し考える風に視線を外し、そのまま何度か確かめるようにうなずいた。
「分かりました。少し待っててくださいね」
「え、あ、は、はい……」
そういうと、彼はそのまま門の中へと入ってしまった。私はよく分からないけれどそのまま待つことにした。どれくらい経っただろう……時間にして数分くらいだと思う。戻ってきた四辻さんの手には紙切れが数枚、握られていた。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます……?」
ごく自然に差し出されたそれを、私は思わず受け取ってしまった。細長い紙が二枚。紙には『入館券』と『招待券』と書かれていた。
「(……これ、美術館のチケット!?)」
頭から血の気が引いていく。私、いつの間にか四辻さんにお金を出させてしまったらしい。
「おっ、お金! 払います!! 払いますから!!」
パニックになりながらもカバンから財布を取り出す。お金を出そうとする私の手に、四辻さんの手が乗せられた。あたたかくて大きな手。あの時握られた体温を思い出して心音が一気に早くなる。
「別にいーですよ。自分のおごりってことで。……と言ってもまぁ、ヤツから押し付けられた招待券が余ってるって話なんですがね」
「でっでも、入館料……」
百歩譲って招待券が余ってるからくれたのだとしても、個展と美術館自体のチケットは別だ。手元には招待券だけじゃなくて入館券もある。こっちは間違いなく四辻さんが払ってくれたものだ。
申し訳なさ過ぎて財布を握りしめたまま四辻さんを見上げると、彼は口元にいつもの笑みを浮かべながら私に手を伸ばそうとして――何かに気づいたかのように途中で止めて軽く手を振った。
「さっきのお詫びですね。自分も、あれは女性に対する扱いじゃなかったって反省しましたし……これでチャラってことにしてください」
そう言って四辻さんは軽く笑い声をあげた。
「うぅ……」
俯いて唸り声を上げるしかなかった。顔が熱くなる。私が子供っぽく拗ねたこと、四辻さんにしっかりとバレていた。恥ずかしい。ものすごく恥ずかしい。このまま地面に埋まりたい……。
「お嬢さん? 入らねぇんですか?」
「! い、行きます! 入ります!!」
四辻さんの声が遠くから聞こえる。慌てて顔を上げるとすでに門の向こうの方まで行ってしまっていた。私は置いていかれないように急いで中に入った。
***
美術館の中はとても綺麗だった。グレーの壁にガラスの窓から差し込む光が当たって『光と影』がよくわかる。モダンでオシャレな雰囲気に少し圧倒された。
「で、目的は個展の方でいーんですよね?」
「あっはい!」
「りょーかいです」
私にそれだけ確認すると、四辻さんは迷うことなく奥へと歩き始めた。来たことがあるのかな? 私は迷子常習犯なので何も言わず彼の背中を追いかける。知っている人についていくのが迷子にならない一番の方法だ。
「なんでまた、こんな微妙な個展を見に来たんです」
前を歩く四辻さんが不思議そうに尋ねてきた。彼の声色から、本気で『訳が分からない』と言っているのが分かってしまって苦笑いが零れる。
私はお話をするために彼の隣に移動した。……さりげなく四辻さんが歩幅を合わせてくれて、また心臓の音が早くなった。
「微妙って……。大学の課題ですよ。いくつかの個展とかを見てレポートにまとめるっていう」
「まさかの女子大生だった……」
「???」
四辻さんは小さくそう呟くと片手で口元を覆った。なんとなく戸惑う気配を感じるんだけど……何か変なこと言っちゃったかな?
「……あぁ、お嬢さん。そっちじゃなくてこっちですよ」
考え事をしながらぼーっと歩いていると四辻さんに軽く腕を引かれた。どうやらまた道を間違えてしまったらしい。小さくお礼を言った。本当、恥ずかしい……。
恥ずかしいと言えば、私ったらチケットをもらったお礼を言ってなかった気がする。恥ずかしくて俯いて黙り込んでそのままだった。
「四辻さん! チケットありがとうございました!! 私、お礼を言うのが遅くなってしまって……その……」
慌ててお礼を言うと、彼は一度首を傾げた後ににこりと優しい笑みを浮かべた。
「ん? あぁ、いーですよ別に。さっきも言いましたが、あれはお詫びなんで。むしろ招待券が減ってラッキーです」
「そういえば招待券をいただいたって言ってましたね。……もしかしてこの個展の作家さんと知り合いですか?」
知り合いかと聞かれた四辻さんは、何故か嫌そうな……なんとも言えない顔をした。
「あぁ、まぁ、学生時代の腐れ縁ですかねぇ……。その招待券も本人が押し付けてきたんですよ。適当に売りさばくかしようかと思ったら『感想聞かせてくれ!! 絶対だからな!』と念押しされましてね、一度は見なきゃならねー羽目になったってことです」
そう言って重いため息をついた。面倒そうにしてはいるけどちゃんと見に来る辺り、四辻さんの人の好さを感じられて思わずニマニマしてしまう。……うん、私やっぱりこの人が好きだなぁ。
「あ、さっきの電話ってもしかして……」
ふと、今の何とも言えない態度の四辻さんと電話をしていた四辻さんの姿が重なった気がした。思わず彼の顔を見上げると、げんなりした表情の四辻さんがこちらを見ていた。
「アイツからですねぇ。ま、お嬢さんが気にしなくていーですよ」
そう言って四辻さんは困ったように笑った。なんだか可愛い笑い方だった。
「学生時代のお友達ってことは、四辻さんは美術系の学校出身なんですか?」
「美術系といえば美術系……に、なるんですかねぇ? ちょっと違う気もしますけど……」
「?」
なんとも歯切れの悪い言い方だ。何か言葉を探すように視線をさまよわせた後、四辻さんはこちらを向いた。
「自分、『建築意匠設計士』なんですよ」
「建築……せっけい……?」
初めて聞く単語だった。建築ってことは建物ってことだろうけど……あとなんて言ってたっけ? 難しすぎてよく分からなかった。
私が混乱したのを見て四辻さんはまた小さく笑った。こうなることが分かっていたみたい。
「あー……建物の見た目とか中身とかをデザインする人のことですねぇ。一応、この美術館も関わってます」
「え、そうだったんですか!? 知りませんでした……!」
言われて思わず辺りを見回す。このオシャレな空間を四辻さんがデザインしたってこと? そう思うと、なんだかどれも特別なものに見えてくる。
「……いや、なんかそーいう風に見られんの、普通に恥ずかしいんですけど」
四辻さんが小さくそう呟いた。口元が少し引きつっている。
「そんなことないです! とっても素敵ですよ!!」
「純粋さがまぶしい……」
一瞬、四辻さんが遠い目をした。
「なんか、さっきから『自分』に対する質問が多い気がするんですが、気のせいですかねぇ?」
「いいえ、気のせいじゃないです! 私、もっと四辻さんのことが知りたいので!」
握りこぶしを握って大きく頷いた。もう会えないと思っていた所に降ってわいたチャンスなのだ。普段の私なら恥ずかしくて何もできなかったと思うけど、すでに告白までしちゃってるんだ、もう怖いものなんてない。
「やっぱり気のせいじゃなかったか……」
四辻さんはまた、遠い目をした。
***
四辻さんとお話ししているうちに目的である個展のブースに着いた。門のところで見たデザインの大きなポスターが貼ってあり、ブース内にはたくさんの絵が飾られていた。
「あいっかわらず理解できねぇモン描いてんなぁ……」
中を見た彼の感想は辛口だった。確かに分かりやすい絵じゃないけど、それがこの作家さんの個性だと思う。……私も完全に理解してるわけじゃないけどね。
私は鞄からメモ帳とペンを取り出す。それをみた四辻さんが小さく笑った。
「どうします? 解説でもしましょうかね?」
「!! はい、ぜひ!」
思わず大きな声が出た。嬉しい。ブースまで案内してくれるとは思っていたけど、一緒にまわれると思っていなかった。顔がにやけるのを止められない。
私が喜ぶのを見て四辻さんは苦笑した。
「と言っても、自分もそんなに詳しくねーですけど。まぁ探せば本人もいるだろうし、いざとなったら適当に捕まえますかね」
「ありがとうございます!」
お礼とともに頭を下げると、軽く頭を叩く感覚がした。……頬がゆるみっぱなしだ。
中は思っていた以上に広かった。白い壁にたくさんの油絵が並んでいる。どれもこれも抽象的で不思議な印象を受ける絵だった。
「ここは基本的に多目的エリアですね。基本的には期間限定の特別展を想定してます。あとは今回みたいな個展を開いたり、最近だと美術館とのコラボイベントの時なんかも使われるみたいですね。基本的には白い大きな空間で、目的に合わせて什器を運び込みます。今回は『絵画』なんで上から吊り下げてます。パネルに掛けるのは危ないんで、あれはただの間仕切りですね。照明も直接当てると絵が痛むってことで――……」
そこまで言って、四辻さんが急に黙った。不思議に思って横を見ると、バツが悪そうに視線を外す四辻さんがいた。
「すみません、『解説』ってこーじゃねぇですよね……。なんか色々しゃべっちまったし、忘れてください」
「いえ! とても楽しかったです。もっと聞きたかったくらいです!」
むしろ知らない四辻さんの一面が知れてとても嬉しかったくらいだ。ずっとずっと聞いていたかったし遠慮しないでほしい。そう言うと彼は口元に手を当てて黙ってしまった。
そのあとは普通に絵の解説をしてくれた。見ただけじゃよく分からないものもあったので彼の解説は素直にありがたかった。時折メモを取りつつどんどん先へと進んでいく。
「これは一体……?」
ある絵の前で足が止まる。今度のものは今までより一段とよく分からなかった。たくさんの色が混じり合うように、でも決して溶け合わずに個々が自分を主張している。個性がぶつかり合っているようだった。
「あぁ、これは……なんでしたっけねぇ。もう同じようなモンばっかりで見分けつかねーですよ」
四辻さんのあけすけな物言いに笑ってしまった。確かに興味のない四辻さんにとってはどれも同じなのかもしれない。……それでもちゃんと解説してくれる四辻さんって、本当に優しい人だと思う。
「描いた時のことは覚えてんですけどねぇ。これ、締め切りがヤバくて飲まず食わずで描いてたハズです。んで、死にかけてウチに電話してきやがったんですよ。『助けてくれ……死ぬ……』って」
「えっ、死ぬ……!?」
物騒な単語が飛び出してきた。驚いて四辻さんの方を振り返るも、慌てる私を見た彼は「大したことじゃねーですよ」と笑うだけだった。
「まぁいつものアレだろうからって適当な食材買い込んでヤツのアトリエに乗り込みましたけどね。メシ作ってやったら元気に全部平らげやがりましたよ。死にぞこないが聞いてあきれます。材料費はきっちり請求しましたけど」
「料理! 四辻さん、お料理する人なんですね!」
四辻さんの手料理! それはなんて魅惑的な響きなんだろう。作家さんがうらやましい。私も四辻さんの作ったご飯を食べてみたい。
じっと羨む目で四辻さんを見つめると彼は目に見えて狼狽えた。
「いや、自分一人暮らししてるんでその程度の料理ですから……ンな瞳を輝かせるモンじゃねーですよ……」
「た、食べてみたいです……。四辻さんのお料理……」
四辻さんは謙遜しているけど、別に美味しいものが食べたいわけじゃない。ただ四辻さんが『私のために作ってくれた』という特別なものが食べたいだけなのだ。私も作ったものを食べてほしいし、四辻さんの作ったものも食べたい。それだけなのだ。
「……機会があれば、まぁ」
私の視線に折れたように顔を反らせてそう呟いた。私はさらに一歩彼ににじり寄る。逃がしてなるもんか!
「絶対ですよ! 絶対ですからね!!」
顔を反らせようとする四辻さんと無理やり視線を合わせるように下から顔を覗き込む。前髪で隠れて見えない目が今は少しだけ見える。
「……あぁもう、分かった、分かりました! ちゃんと作りますから勘弁してください!!」
観念したように四辻さんは両腕を上げた。完全敗北宣言である。これで言質は取った! 私は嬉しくなって少し飛び跳ねた。
「えへへ……」
頬がゆるむ。もうゆるんゆるんだ。四辻さんと一緒にご飯を食べる約束をしちゃった。しかも四辻さんの手料理……幸せすぎる。
「何がそんなに嬉しいんですかねぇ……」
彼は小さくそうぼやいていたけど、口元はうっすらとだが笑っていたような気がした。
ひと際大きいエリアに出た。壁には今までで一番大きな絵が飾られている。その近くに若い男の人がいた。短く切りそろえられた髪にTシャツとデニムの普通の人だ。……なんとなく、服のすそに少しだけ絵の具がついているような気がした。
四辻さんは無言でその男の人の方へ向かうと、いきなり顔を肘で殴りつけた。
「い゛っ……!?」
顔を押さえてうずくまる男の人の後ろに素早く移動すると、相手が倒れ込まないように足を差し込みつつ体に腕を入れてそのまま横へ倒した。
「い゛っててててて!!! 痛いイタイいたい! いたいって!!」
何かの技を受けている男の人は悲鳴を上げながら四辻さんの足を叩いている。四辻さんは構うことなくさらに力を込めたみたいだった。
「ギブ! 降参! 参った!! オレが悪かったから! だから離せって!!!」
「謝罪の言葉がねぇ」
「ごめんなさい!!!」
男の人が謝罪を口にすると四辻さんはすぐに開放した。男の人は床に倒れ込んでしまった。……あれ、大丈夫かなぁ。
「すみませんねぇ、お待たせしてしまって」
「い、いえ、大丈夫です……」
四辻さんはまるで一仕事終えてきたかのような爽やかな笑顔だった。そのあまりの変わりように何も言えなくなってしまった。あの人……たぶんお友達、なんだよね?
「くっそ……容赦なく技かけてきやがって……。節々がいてぇ……」
「軟弱者め」
「お前と一緒にすんな!」
ぶつぶつ言いながらも立ち上がる男の人は意外と元気そうだった。立つと四辻さんより少し低いくらいの身長で、顔は溌剌としている。なんだか大型犬を思い浮かべてしまう人だ。
その男の人は私を見ると、大きな目をさらに大きくさせた。
「おい、四辻!! やっぱり彼女連れてきてるじゃねーか! しかもめちゃくちゃ可愛いし!! ひとり身のオレへの当てつけかよ!!! ふざけやがって、禿げろ! もげろ! 爆発しろ!!」
「だから彼女じゃねーつってんだろーが!! 話を聞け脳筋!!」
「それもそうだな」
男の人は急にこちらを向くとニコッと笑った。その笑みは爽やかで屈託がなく、あの不思議な絵を生み出した人とは思えなかった。
「オレ、『河野大悟』。ここの個展のオーナーで、この偏屈な男の友人やってんだ。君は? コイツは『ただの知り合い』だって言ってるけど」
「オレじゃなくてお嬢さんに聞くのかよ」
「お前の話は信用できない」
「この野郎……ッ」
邪気なく笑う河野さんに対し、四辻さんが静かに拳を握った。なんとなく二人の関係が理解できた気がした。
「はじめまして、私『藤沢さくら』といいます。四辻さんには私が告白して、今は返事待ちです! そして、今日は記念すべき初デートなのです!」
「ちょっ、お嬢さん!?」
四辻さんが焦った声を出したような気がするが気のせいだ。こういうものは言ったもの勝ちだって友達も言ってたし。固まる四辻さんを横目に私は河野さんに負けない笑みを浮かべる。
私の言葉を聞いた河野さんはすごい勢いで四辻さんの方を向くと彼の肩に掴みかかった。眼は血走っていて……正直怖い。
「ギルティ!! リア充死すべし慈悲はない!」
「うっせぇ!! こっちも初耳だっつーの!!」
掴みかかられた四辻さんは河野さんの手を離すとそのまま別の技をかけてしまった。反撃にあった河野さんは「ギブギブ!!」と叫んでいる。なんだかさっきの焼き回しを見ているみたいだ。
「…………?」
足音がして振り返ると、このエリアに誰かが近づいて来るのが見えた。スーツを着た男の人だ。河野さんに用事があるのかこちらをチラチラみている。
止めようと声をかけようとしたが、二人ともいつの間にか何事もなかったかのように立っていた。す、素早い……。
河野さんはこちらを向くと、さっきまでの怖い顔ではなく爽やかな笑みを浮かべた。
「……ともかく、ゆっくりしていって。困ったことがあったらその男を使えばいいからさ」
「オイ」
「それじゃまた! 今度メシおごってくれー!」
「断る!!」
河野さんは笑いながら去っていった。なんだか嵐みたいな人だった。ため息が聞こえて隣を見ると、四辻さんが何とも言えない顔をして去っていた方を見つめていた。
「仲いいんですね」
「気のせいですよ……。ただの疲れる男です」
「そうですかね……?」
あんな風にやり取りできる相手ってなかなかいないと思う。どちらも相手を信頼してるっていうか、これくらいやっても大丈夫というか……。説明できないけど、確かな絆の様なものが二人の間にはあったように思う。
「まぁ自分のことは良いんですよ。ほら、こちらへ」
四辻さんに促されてあの大きな絵の前に立つ。かなり大きい。壁一面……とは言わないけど、それくらいの大きさに見えてしまう。いろんな色が渦を巻いて中心へ集まる……そんな絵に見えた。
「なんだか圧倒されますね……」
「タイトルは……『感情』? また抽象的な……」
ぐるぐると、色がまわる。ぐらぐらとする。いろんな色が混ざって、回って、黒になる。全てが混ざる。今までの絵はきっと、これを描くためのものだったんだって今ならわかる。全てが、今までの全てが混ざりこんで一つに溶けていく。
「何でしょう……引き込まれる絵、ですね……」
「……、お嬢さん?」
見ていると足元がふわふわしてくる。黒だ。黒が呼んでる。どこまでも黒い、渦の真ん中。……呼ばれてる。黒に呼ばれている。帰らなきゃ、黒に。戻らなきゃ、黒に――……。
「また変なの連れてきましたねぇ……好かれやすいのか? 厄介な……」
手を伸ばす。あと少し、あと少しで届く……。
そう思った時、私の手は暖かいものに包まれた。そのまま引っ張られて足元がふらついた。体が何かにぶつかる。……頬に、暖かいものが添えられた。
「お嬢さん、しっかりしてください。目ェ見えてます? 自分の顔が分かりますか?」
「あ……」
四辻さんだ。黒い髪の向こう、心配そうに私を見つめる黒い瞳があった。
「今、のは……」
「あー……説明タブーのアレだった、と思ってください。どうやら引っ付いてきたみてぇですね」
だんだんと意識がはっきりしてくる。徐々に恐怖が追い付いてきた。脚がガクガクと震える。
私、絶対変だった。あんな……何かに引き寄せられるみたいにふらつくなんて。あのまま引き寄せられていたら私はどうなってたんだろう……。言いようのない恐怖が背筋を伝った。
また四辻さんに助けられたみたい。彼の服をぎゅっと掴む。……握っても手の震えは止まらない。ちゃんと現実に戻って来たのに、あんな訳の分からない世界じゃないのに。どうしてこんな怖い思いをしなきゃならないんだろう。
四辻さんはあんな怖いもの相手にどうして普通でいられるんだろう? 怖くないのかな? 彼の顔をうかがってみる。四辻さんはただ心配そうな顔で私を見つめているだけだった。
「四辻さんは、どうして見えるようになったんですか? 色々詳しいみたいですし……怖くは、ないんですか?」
気づけば私はそう問いかけていた。四辻さんが少し驚いた顔をした。それからバツが悪そうに視線をそらせた。
「まぁ、自分の事情は聞くも不幸、語るも不幸の全く面白くない話ですからねぇ。……ちょっと、勘弁してください」
言いづらそうに、彼はそう答えた。
「そう、ですか……」
どうやら複雑な事情があるらしい。私を巻き込みたくないから話したくないってことなんだろうけど……どこか気落ちしてしまう。出会ってまだそれほど時間が経っていない赤の他人には話せないことだってあるってわかってはいるのに……どうしてこんなにショックなんだろう。
「これで最後ですね。書けましたか?」
「あ、はい……」
私は手元のメモを見た。……最後の分は書けてないけど、これでいいだろう。またあの絵を正面から見る勇気は今の私にはない。
彼の問いに頷くと、四辻さんは何でもない風にいつもの笑みを浮かべた
「お嬢さん、この後の予定は?」
「特に、ありません……このまま帰るつもり、ですけど……」
そう。もう案内は終わってしまった。四辻さんとはここでお別れになる。沈んだ気持ちがさらにずぶずぶと落ちていく。せっかく彼と会えたのに、こんな変な終わり方なんて……せめて笑って『さよなら』できればよかったのに。今の私には無理にでも笑う元気は残っていなかった。
ヒールのつま先をぼーっと眺めている私の頭の上から優しい声が降ってくる。
「なら、自分と何処かへ出かけます?」
「……え?」
何かとんでもないことを言われた気がする。俯いていた顔をゆっくりと上げた。そこには悪戯っぽい笑みを浮かべた四辻さんがいた。
「『デート』なんでしょう? 今日はどこまでも付き合いますよ」
「はい……はいっ!! 嬉しいです!!」
じんわりと喜びが胸の奥から溢れてきた。聞き間違いじゃなかった。四辻さんがデートって……私とお出かけしてくれるって……! 嬉しすぎて涙が出てきた。
「現金な人ですねぇ、まったく」
彼が呆れたような笑みを浮かべてるけど、そんなの気にならない。だって幸せなんだもん。まだ四辻さんと一緒にいられるなんて夢みたいだ。
「ほら、いきますよ。行きたい場所、考えといてくださいね」
「はい!!」
私は元気よく返事をして、そのまま彼の腕に飛びついた。一瞬、彼の体が強張ったような気がした。
「……だから、なんで腕を掴むんですかねぇ」
ぼやく彼を他所に、私は上機嫌で個展のブースを後にした。
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