恐怖の鼓動は恋愛に似て。
私は昔から方向音痴だった。道が覚えられないというか覚え方が下手で、どうしても行きと帰りの道が同じに見えずに曲がる方向を間違える。右か左かの二択で必ず外すし、なんなら「右!って思ったから左だ!」と自分にフェイントを入れてみても間違える。地図も当然読めません。あれ、どっち向いてるのか分からなくなるんだよね……。
そして今日もまた、道に迷ってしまったらしい。
「ここ、どこだろう……」
初めて行く場所だからちゃんと調べて来たのに、気づけば知らない場所に立っていた。
どこまでも続く住宅街。大きな道路を挟んで左右に似たような家が建っている。今日行く予定だった所ってこんな場所だったかな? 駅を降りてからの記憶がどうも怪しい。また途中で違う道に進んでしまったみたいだ。
がっくりと肩を落としながら、コンクリートブロックの塀で囲まれた家を横目に進んでいく。何処を見ても同じ景色。似たような家ばっかりで違いが分からない。途中の十字路で立ち止まって左右を見てみるけど、同じような景色が続いているだけだった。
「こんな時に限ってスマホの電池切れちゃってるし……充電器忘れちゃったし……」
重いため息が零れる。普段迷子になっても大丈夫なのはスマホに案内してもらっているからだ。目的地を入力すると音声で案内してくれるので迷子常習犯の私としては非常に助かっている。今日もスマホに助けてもらおうと思っていたのに気づけば画面が真っ暗になっていたのだ。電源を入れようとしてもうんともすんとも言わない。朝確認したときにはちゃんと充電出来ていたので、もしかすると故障してしまったのかもしれない。
「もう、本当にどうしよう……」
何度目かの十字路に立つ。左右を見ても相変わらず似たような景色が続いているだけ。このまま進んで知っている場所にたどり着くのか、それともどこかで曲がらなきゃいけないのか。今の私には何も分からなかった。せめて誰かに駅の場所まで聞ければいいんだけど住宅街なのに何故か人影が全くない。一人くらいすれ違ってもいいと思うんだけどなぁ。
沈みそうになる気持ちをぐっとこらえる。下を向くからダメなんだと俯きそうになる顔を無理やり上へと向ける。空は変わらず黒いまま。灰色の雲がどこか足早に流れていく。
「――――え?」
……そこで私はようやく『異変』に気づいた。
「なっ、なんで夜になってるの!?」
いつの間にか辺りは真っ暗になっていた。おかしい。今はまだお昼過ぎのはず。日が落ちるのはまだまだ先だ。私がぼーっとして迷子になっていたとしても、夜が来るのは早すぎる。
慌てて腕時計で時間を確認してみた。時計の針は十二時を過ぎたくらいを差している――はずなのに。
「なに、これ……」
――時計は、【四時四十四分】を差したまま止まっていた。
「や、やだ……やだ、やだッ!!!」
恐怖がじわりじわりと足元から這い上がる。その感覚から逃げたくて私は気づけば走り出していた。どこへ向かっているかは分からない。ただ、今この場所から逃げ出したかった。意味の分からない場所から逃げ出したかった。
訳も分からず走っていた私は、十字路の角から何かが出てくるのに気付かずそのままぶつかってしまった。かなりの勢いでぶつかってしまい派手に尻餅をついた。鈍い痛みが腰のあたりからする。
「す、すみません……!」
私は謝りながらゆっくりと立ち上がった。
「――――。」
目の前に。
まっくろな、ヒトガタが、いた。
「ひっ……」
悲鳴が喉から零れた。思わず口を押さえる。目の前にあるのは普通のモノじゃなかった。黒い靄のようなものが人の形になったナニカだ。ぞわぞわと嫌な感じがする。無意識に足が後ろに下がっていた。……そうだ、逃げなきゃ。早く逃げなきゃ。ここから逃げなきゃ。早く、早く、はやく――……。
「――――。」
黒いナニカはゆっくりとこちらに手を伸ばしてきた。避けようと思うのに足が動かない。体中が震えて言うことを聞いてくれない。黒い手は目の前まで来ている。私は怖くなってぎゅっと目をつぶった。
「――はいはい。そこまで、ですよ」
男の人の声がした。それと同時に背中に暖かいものが添えられる。……強張っていた体から力が抜けたような気がした。
「全く、なんでこんなところに女の子がいるんですかねぇ……。見間違いかと思ってスルーしなくて正解でしたよ」
低くて優しい声だ。聞いているだけですごく安心する。ずっとそばで聞いていたくなる声だ。でも、この声の人は誰だろう? 私の知り合いにこんな素敵な声の人はいなかったはず。
「お嬢さん、もう目を開けてもいいですよ」
「えっ? ……あ、は、はい!」
ぼうっと声を聴いていた私は話しかけられたことに気づかず、背中を軽く叩かれて慌てて目を開けた。
隣にいたのは背の高い男の人だった。私より頭ひとつ分大きい。黒いボサボサの髪に、ダボっとした柄シャツと細身のスラックスを合わせている。目は髪に隠れて見えないが、口元は薄く笑みを浮かべている気がする。
何処からどう見ても『不審者』だった。普通の街中で出会ったらまず間違いなく目を合わさないし、話しかけられても絶対応えない。そんな人だ。
別に今も怖い気持ちがないわけじゃない。言葉に出来ない不安を感じるけど……さっき背中に感じた手のぬくもりと私にかけてくれた優しい声が、私をここに留めてくれている。
「あ、あのっ! わた、わたし、迷子でっここ、分か、らなくてその、あの、」
焦りで言葉が出てこない。パニックになってさらに言葉が詰まる私に、男の人は宥めるように背中を撫でてくれた。不思議とそれだけで気持ちが落ち着いてくる。
「分かってます。お嬢さんはココに『迷い込んだ』。自分が『ソト』まで案内しますから、心配しなくていいですよ」
「あ、ありがとう、ございます……っ!!」
優しい言葉に大きく頭を下げる。嬉しさと安堵で泣きそうだ。さっきまで一人で怖くてたまらなくて、今も不安でいっぱいいっぱいだけど……一人じゃないってだけで何とかなりそうな気がしてくるから不思議だ。
「では行きましょうか。ちゃんとついてきてくださいね」
「は、はい!!」
私はしっかりと頷いて、男の人の背中に張り付くぐらいまで近くに駆け寄った。
「……いや、そこまでしろとは言ってねーんですけどねぇ」
男の人の困ったような声が聞こえるが聞こえないフリをした。だって怖いんだもの。彼には申し訳ないけど盾になってもらおうと思う。……またあの怖いヒトガタが出てこないとも限らないし。……見なければ大丈夫、たぶん。
「ま、それでいいなら行きましょうかね」
男の人はそう言って歩き出した。ゆっくりと前に進む背中を、私は必死に追いかけた。
「…………。」
「…………。」
恐る恐る後ろをついて歩く。無言だ。私たちの間に言葉はない。聞こえるのはコンクリートを叩く音と風が通り過ぎる音だけ。なんだか居たたまれなくなって、私はつい、何も考えずに口走っていた。
「あ、あの、さっきのアレは、なんですか? あれ、普通じゃない……ですよね? なんか、急にいなくなってましたけど……あれ、アナタが何かしたんですか?」
言ってから「しまった」と思った。何か話題が欲しかったとはいえ、思い出したくないあの恐ろしいものを話題にしてしまうなんて……。
でも、口に出してから疑問に思った。あの恐ろしいヒトガタは目を開けたときにはどこにもいなかった。勝手に現れて勝手に消えた、と言ってしまえばそれだけだろうが……私には、目の前の男の人が助けてくれたような気がしたのだ。だから少し気になって問いかけたつもりだったんだけど……。
「――ダメですよ、お嬢さん。アレを『理解』しようとしては」
「えっと……?」
返って来たのは、思った以上に真剣な声だった。目の前の背中が急に止まる。私は止まれずに背中にぶつかった。見上げると、私を見下ろす男の人の顔があった。髪の向こうにうっすら見える瞳が光ったような気がした。
「認識すること。存在を知ること。理解すること。ここではそれらは『タブー』です。絶対にしてはいけないんですよ」
「言っている、意味が、よく分からない……ん、ですが……」
彼の気配に足が動かなくなる。怖い。何が怖いか分からないけど……何かが怖い。ごくり、と喉が鳴った。
「……これもあまり説明したくねーんですがねぇ。お嬢さんの場合、言わねぇと勝手に首を突っ込みそうで、そっちの方が怖い」
「す、すみません……」
ため息をつかれて思わず謝ってしまった。でも、男の人の言う通りだ。私はきっと、納得できるまで調べてしまう。怖い、なんて言いながら考えなしに突っ込んでしまうだろう。
「なんて言やぁ分かりますかねぇ……」
男の人は困ったように頭をかく。私はなんだか申し訳なくなった。私の我が儘に突き合わせているのに、さらに困らせるようなことをしてしまっている。助けてくれる人に甘えっぱなしになっていると分かっているけど……でも、やっぱり気になるものは気になるのだ。
男の人はあーでもないこーでもないと呟き、何か思いついたのかポンッと手を打った。
「あぁそうだ、例えば『壁の染み』。普段何気なく目にしてる時は『ただの染み』ですが、誰かに『これって猫に見えるね』と言われると、もうその染みが『猫の形の染み』にしか見えなくなる。もう『ただの染み』としては見れなくなってしまう」
「そう、ですね……?」
彼が何を言いたいのか分からなくて同意する声に疑問が混じってしまう。私が納得していないと気づいているのか、男の人はさらに難しい顔で話を続けた。
「あれもそーいうもんですよ。一度『そういうもの』だと理解しちまうと、『そう』としか見えなくなっちまうんです。理解できないモンを理解しようとすると、頭がそーいう風に作り替わっちまう。特に名前を知るのは最悪です。名前を知るってことは、ぼやけた輪郭に意味を与えるってことですから」
「ぼやけた輪郭に、意味を……」
彼の言葉をゆっくりとかみ砕く。なにか大事なことを伝えようとしてくれていることは分かるんだけど、私の頭が悪いのか、うまく理解することが出来ない。あれは、ぼんやりして、形がなくて、染みのようなもの……?
「お嬢さん、怖いものは嫌いでしょう?」
「は、はい……」
「なら、これ以上はやめときなさい。怖いものがさらに怖く『見える』」
「は、はいっ!! やめます! もう考えません!!」
私は勢いよく返事を返して、それ以上考えるのをやめた。怖いのは嫌だ。さらに怖くなるなら何も分からなくてもいい。
必死に頷く私が面白かったのか、男の人は笑いを堪えながらまた歩き始めた。私も置いていかれないようについていく。
「…………。」
男の人が怖いことを言うからか、また恐怖がじわじわと襲い掛かってきた。手が震えてくる。今ここがどこなのか分からないし、あの怖いものが何かも分からない。『分からない』ということが怖くてたまらない。でも、男の人は『理解しちゃダメだ』っていうから何も考えないようにはしているけれど……それで、恐怖が消える訳じゃ、ない。
私はそっと、目の前で揺れるシャツに手を伸ばした。指の先で少しだけ掴む。子供っぽいとは思う。思うけど、どうしても縋りたくなってしまったのだ。
「……お嬢さん。裾だけ掴まれると、歩きにくいんですが」
「ご、ごめんなさい……」
「いいですよ、気にしなくて。怖がらせたのは自分ですからねぇ。……ほら、握るんならこっちにしてください」
そう言って男の人は手を差し出した。大きな手だ。私の手より一回り大きい。
ゴツゴツして節くれだった、男の人っぽい手。
「し、失礼します……」
なんだか妙にドキドキする。ただ、手を握るだけなのに。不安で、置いていかれるのが怖くて、迷子にならないようにするだけなのに。そこに恋愛感情なんてないはずなのに――。
「なんで指だけ握ってるんです……」
「……さ、さぁ?」
気づけば私は差し出された手の人差し指だけ小さく握っていた。顔から火が出そうだ。恥ずかしくて顔を上げられない。
頭上で呆れたようなため息が聞こえる。とっても困らせてる。呆れられてる。面倒な子だって思われてる。嫌われたらどうしよう。
「変なとこで遠慮してどーすんですか、全く。……ほら」
「わ、わ……!」
彼はそういうと、おもむろに私の手を掴んだ。私の小さい手が彼の大きな手にすっぽりと収まる。繋がれた場所から彼の熱が私に移る。熱い。手が熱い。顔が熱い。熱くて頭がクラクラする。
「(ひっ、ひぇー……っ!)」
内心悲鳴を上げる。ドキドキで倒れてしまいそうで、転ばないように、ぎゅっと彼の腕を抱え込んだ。
「なんで手はダメで、腕は掴めるんですかねぇ……」
彼の呆れたような困った声は、私には届かなかった。
「(どうしよう、どうしようどうしよう……!)」
たぶん気のせいだ。目が回るような激情も、暴れる心音も。変な場所に来て、変なものに遭遇して、混乱しているだけ。
違うんだって、そう思うのに。
―――どうして、こんなにも苦しいんだろう。
「……さて、着きましたよ。ここを抜けると表に出ます」
彼の言葉にハッとする。顔を上げると、そこには大きな鳥居があった。真っ赤に輝くそれは神々しくて思わずぽかんと口を開けてしまった。神社で見るより不思議な感じがする。
「じゃあ、自分はここでお別れです。今度は迷わず真っすぐ帰るんですよ」
「あ、あのっ!! 名前! 名前を教えてください!!」
私は離れていく彼の腕をとっさに掴んだ。ぐるぐると行き場のない感情が渦を巻く。握る手に力がこもる。見上げれば戸惑う彼の顔が見えた。
「名前って……。お嬢さん、自分の話聞いてました? 名前を知るのは最悪だって――」
「アナタの名前です! アナタの名前が知りたいんです!! 知るのはダメって言ってましたけど、アナタのことは良いんでしょう? 私、アナタのことが知りたいんです!」
一度決壊したら、もうダメだった。言葉が溢れだして止まらない。感情が暴れて言うことを聞かない。叫ぶたび、感情を吐き出すたび、視界が涙で歪んでいく。
「ここで終わりなんて嫌です! もっとお話ししたいです! また会いたいです!! 私、だって、わたし――」
「お嬢さん待って、タンマ、ストップ!」
「!」
初めて聞く彼の大きな声に驚いて反射的に言葉が詰まる。涙で歪む視界の向こう、なにか動揺したように一歩後ずさる彼の姿が見えた。
「分かって言ってます? それ、お嬢さんにとって何でもないかもしれませんけどねぇ、それって『そういう意味』に聞こえるんですよ。勘違いさせるようなことを……。大人を、からかうもんじゃねぇですよ」
――その言葉を聞いた瞬間、私は叫んでいた。
「そういう意味で言ってます!! 私、アナタのことが好きなんです!」
それは、嘘偽りのない私の『本心』だった。
「は……、」
「好きに、なっちゃったんですよ……。どうしようもないんです、アナタが好きなんです。もう訳が分かんないくらい好きなんです……」
手で顔を覆う。嗚咽が止まらない。どうしてこうなっちゃったんだろう。こんな風に感情を吐き出すつもりはなかった。気持ちを伝えられればいいな、くらいにしか思っていなかったのに。私ってこんなに情緒不安定だっただろうか。もう何も分からない。自分のことも分からなくなってしまった。こんなんじゃきっと、【どこにもたどり着けない】――。
「――『ヨツジ』」
「え……」
「自分の名前、ですよ。『四辻 聡』です。……これでいいですか」
そう名乗る彼の声は、ひどく優しかった。
「……今、お嬢さんは混乱してるだけです。君のような若いお嬢さんが、自分みたいな変な大人に引っかかるもんじゃねぇですよ」
落ち着かせるためか、四辻さんの手が私の頭をなでる。
「でも、わたし、わたし……っ」
「大丈夫ですよ、忘れます。全部忘れますから。……だから、泣かないで」
目元を乱暴に拭われる。歪んだ視界がクリアになる。見上げると、四辻さんが耳まで真っ赤にさせて困った顔をしていた。
「よつじ、さん……」
「ほら、行って。今度こそ、迷わないように」
ぽん、と背中を押される。脚が一歩前に押し出される。
「あ……」
ぐるり、と視界が回る。唐突に『元に戻るんだ』と頭が『理解』した。
「ま、待って――」
慌てて振り返る。鳥居の向こうで、背の高い、ボサボサ頭の男の人が困った笑みを浮かべていた。
私まだ、返事を聞いてない。まだ言いたいことがたくさんあったのに。まだ、離れたくないのに。必死に手を伸ばす。でも、体はどんどん後ろに引っ張られていく。彼の姿が遠くなる。意識がどんどん遠くなる。
「――大丈夫。君はちゃんと、【たどり着ける】から」
意識が落ちる直前、彼がそう小さくつぶやくのが聞こえた気がした。
***
――気が付けば、元の駅にいた。目の前をたくさんの人が通り過ぎる。みんな何事もなかったみたいに過ごしている。私の知る日常がそこにはあった。
ほほをつねってみる。痛みがじんわりと広がった。夢を見ているわけじゃ、なさそうだ。
「……私、全然『忘れて』ないですよ、四辻さん」
私のつぶやきは喧騒に消えた。ため息が零れる。
あの恐ろしいモノも、優しい人の声も、胸の内に広がる感情も。何もかも覚えていた。何一つ、忘れてなんていなかった。
「四辻さんの、ウソつき……」
見上げた空は、憎いほどに青かった。
―――――――
続きます。
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