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闇夜の恋

「次の仕事が決まった、つた」
「……はい」
 広い座敷の奥、暗い色の服を着た父がそう言った。
「次の仕事は大きな取引相手だ。失敗は許されない」
 館の奥、明かりの届かない当主の部屋。襖は締め切られ辺り一帯が薄暗い。ぼんやりと、灰色の世界が広がる中、上座で壮年の男が感情のない顔をしてこちらを見ている。私は顔を見ないように視線を外し、大人しく見えるよう顔を伏せた。……頭のてっぺんに父の視線を感じる。
「標的の名前は『塩本秋空あきら』。二十代の男だ。裏社会の賭博場に現れては荒稼ぎをしていくギャンブラーだ。髪や血、身辺のものなど一切ない。入手することから始める必要がある。期限は一週間」
 感情のない声が重苦しい空気にぶつかる。こちらに届く頃には体にまとわりつくような、反響するような、不愉快なナニカになった。それでも私は顔を上げない。ただ、ひたすら畳の目を数える。
「良いな、失敗は許されない」
「はい、お義父様」
 私は手をついて一層頭を下げる。……しばらくすると、襖がピシャリと閉じる音がした。そこでようやく、私は頭を上げた。
「…………。」
 ため息をつきたい気持ちでいっぱいだった。重く沈んでいく気持ちをなんとか持ち上げ、私も部屋を後にした。

薄暗い、板張りの廊下を歩いていく。曲がり角の向こうに人影が見えた。原色そのものの目にキツイ服が、暗い世界の中で浮かび上がっている。激しい色の上に、焼けた茶色の髪と死人のような白い顔が乗っかっていた。まるで死体か幽霊が派手な服を着せられているかのようだった。
 白い顔の幽霊は細い目をさらに細くさせ、「辛気くさい顔」と舌打ちするかのように吐き捨てた。
「調子に乗ってんじゃないわよ。分家の子のクセに、当主に色目使うなんて頭おかしいんじゃないの?」
「…………。」
 白い顔の幽霊――義姉はそう言って顔を思いっきり歪ませた。怨嗟に飲まれた幽霊の顔だった。
「アンタなんか身体目当てなんだから。さっさと洋臣の子を生んで消えればいいのに」
 そういって怨霊は呪詛を撒き散らしながら廊下の奥へと消えていった。――私は、そのまま自分の部屋へと戻った。

私の家――井上家は、少し特殊な家だ。古くから続いている呪術師の家系であり、表には一切でない『裏社会の人間』だった。呪術には祈祷だったり占いだったり色々あるが、我が家がもっぱら得意としているのは『呪い』だ。呪い……すなわち、呪殺だ。相手を己の手を介さずに殺せる。名前や髪、血などその者と繋がるもの、身につけているものを触媒として相手を呪う。呪われた相手は不運が続き、事故にあったり病気にあったりして、最終的には命を落とす。
 『どれだけ健康な人でも、事故に遭うのは仕方がない。』『病気で急死するのは運がなかった。』……誰も、その死を不審に思うことはない。誰が殺したのかわからない、とても優秀な暗殺方法、ということだ。
 私はそんな呪殺を生業にしている井上家の分家に生まれた。両親とは仲が良かったと思う。特に変わったところのない、普通の子だった。ただ、私の霊力が異常に高かったために本家の当主に目をつけられ、両親と引き離されたというだけで。
 幼い私は、死にものぐるいで鍛錬を積んだ。急に親と離され、周りの大人には「立派な呪術師になれ」と言われ続け、よく分からないながらも「鍛錬をしなければここには居場所がない」と本能的に思った。実際、そうだった。他にも分家から引き取られた子はいたが、結果を出せない子はいつの間にか消えていた。消えた彼ら・彼女らがどうなったかは知らない。……知りたくもない。ただ、私は自分のためにひたすら鍛錬を積んだ。
 そうして――私は、『歴代最強』という肩書を押し付けられた。霊力の高い私は、本家の人間よりも強くなっていた。それが本家の連中は面白くないらしい。小言を言われるのはいつものこと。睨まれたり、陰口を叩かれるのも当たり前。これで私が弱ければ呪殺でもされるんだろうけれど、私の方が強いため呪えば呪い返しに遭うと分かっているため直接的でも間接的でも手を出してこない。それだけは救いだった。
「…………」
 渡り廊下の先、離れの部屋に入ってようやく息をつく。……ここには、居場所がない。私が『歴代最強』というのもあるが、私の容姿にも問題がある。黒壇のような黒髪、真珠のような肌。寒椿のような唇。母譲りのこの容姿は、人よりも優れているらしい。それが義姉には、義妹には、義母には、気に食わないらしい。義父と義弟たちは毒を吐かないが、時折妙な目でこちらを見ていることには気づいている。……刺すような視線と肌を這い回るような視線、それらを浴び続けることにももう慣れてしまった。それくらい、私には当たり前になってしまった。
 私は重い体に鞭を打ち、仕事道具をカバンに詰めた。服を着替えようかと思ったが、あまりにも億劫なのでやめた。制服の方が怪しまれにくいというのもある。黒い布のカバンに一通り道具を詰め込み、肩から下げて部屋を出た。
「…………」
 ふと見上げた空は、鈍く重苦しい色をしていた。私の心のようだった。私の未来のようだった。重く、苦しく、先の見えない灰色の世界。
「…………」
 軽く息を吐き、鉛のような足を無理やり動かし外へと向かった。

――私は、この家が嫌いだった。

***

ターゲットの居場所はすぐに見つかった。繁華街の裏の薄暗いボロアパートが男の住処だ。女子高生が繁華街に行けば面倒事になるだろうが、暗い場所、人の意識のすきを突いて歩けばそこまで目立たなかった。おそらく、ターゲットの男もそうして人の視線を避けて出入りしているのだろう。私は周りに意識を向けながら慎重に先へと進んだ。
 目標は相手の血をもらうこと。血が一番呪殺に向いている。だが、早々簡単に手に入るものでもない。なので、現実的なものは髪の毛だろうか。髪の毛も体の一部ということで非常に力が強い。呪殺するときも髪を使えば直ぐに効果が出る。あまりすぐに効果が出てはいけない仕事のときもあるが、今回相手は裏社会の人間だ。死んでも誰も気にもしないだろう。
 ボロアパートに辿り着いた。私は音を立てないように階段を登る。そして、二階の一番奥の部屋の扉の前にたった。表札は出ていない。が、男の住処はここだ。
「…………」
 私は扉に手を軽く触れる。ひんやりとした金属特有の冷たさが指を伝う。熱を奪われる感覚に浸りながらも霊力を流していく。本当はここまでする必要はないけれど、万全を期したい。扉に耳を当てるだけでも中の様子を確認できるけれど、霊力を流したほうが確実に分かるから。
 私の霊力は水に落とされた墨汁のようにじんわりと広がっていく。霊力はどこにもぶつからず、部屋中に満たされていく。――どうやら部屋には誰もいないらしい。
「…………」
 私はカバンの中から墨の塊を取り出し、鍵穴に当てる。そのまま霊力を流せば鍵を作ることが出来るのだ。霊力が奥まで届いたことを確認したら、そのまま鍵を回す。と金属の外れる音がした。私は素早く墨の塊をカバンに隠し、ゆっくりと扉を開けた。
 中は必要最低限のものしかなかった。生活感というものが感じられない。布団もベッドもない、フローリングむき出しの部屋。事前の情報がなければ本当にここに人が住んでいるとは思えないほど殺風景だ。
「(……でも、人がいた気配は残っている)」
 しゃがんで床に手を当て、部屋に残った力を感じ取る。つい先程まで人がいたらしい。私は運が良かったようだ。私は呪術師、影から殺すのが仕事。ターゲットに顔を見られるのは三流の仕事であり、そんなヘマをするわけには行かない。私は完璧に仕事をこなさなければならない。失敗は許されないのだから。
 ……そう、失敗は許されない。なのに――……
「ほう、どんなネズミが入ってきたのかと思えば……随分綺麗なネズミだな」
「!?」
 後ろから、声がした。
 慌てて振り返ると、部屋のど真ん中に男が立っていた。中肉中背。少しヨレたシャツに濃いグレーのスラックス。薄汚れた白衣を羽織っている。髪は黒。少し長い前髪の隙間から、背筋が凍る用な冷たい瞳がじっと私を見つめていた。
 ――いつから、いたのか。
 私は無意識につばを飲み込んだ。だって、部屋の中には誰もいなかった。外から霊力を使って確認したし、中に入ってからも一通り見回った。でも、こんな男はどこにもいなかった。この狭い部屋の中、大の大人が隠れる場所なんてなかったのに……――
「ふむ、『呪術師』、か」
「!」
 声が耳元から聞こえてきた。とっさに後ろに跳んだ。いつの間にか隣に来ていた男は愉快そうに口元を歪めた。……ただし、闇の向こうに見える瞳は冷たいままだ。
「なるほど、少し荒らしすぎたのか。こうも素早く刺客を向けられるとは……。奴等が狭量なのか、それともプライドが許さなかったか……。いや、両方だな。面子がかかれば手段も選ばず、か」
 男は一人で何やらつぶやいている。が、私には男に構う余裕はなかった。
「(顔を見られた。呪術師が、顔を見られた。井上家の呪術師が、標的に顔を見られたなんて――)」
 ありえない。最もありえてはいけない。だって、それは完膚なきまでに『失敗』だ。絶対犯してはいけない『罪』だ。完璧には程遠いモノだ。
 どうする、どうしよう、どうすればいいの……。
「(――――殺そう)」
 私はカバンから呪符を取り出す。まずはこれで相手の動きを封じて、それから血を抜いて、それから、それから――……
「……え、」
 一瞬、意識を手元に移した。それだけだ。それだけなのに。
「いない……」
 目の前にはガランとした部屋が広がっているだけだった。男の姿はどこにもない。影も形も、本当にそこに存在していたのかすらわからない。
「ありえない……」
 人が突然消えた。私にはそうしか思えなかった。でも、人って突然消えるものなの? たしかに私も『呪い』なんてものを扱っているから、『突然消える』なんて変な力を持った人がいるかも知れないけれど……。
「……いえ、呆けてる場合じゃない。早く追わないと」
 止まった頭がようやく動き始めた。私はカバンの中から宝石のついたペンダントのようなもの――ペンデュラムを取り出す。そして家の中を素早く見回し、フローリングの上についた泥の上に宝石をのせた。ここは、さっきまであの男が立っていた場所だ。あの男、家の中だというのに靴のままだった。急に現れたことに驚いてばかりだったけど、靴のまま上がるなんて絶対変だ。
 私は宝石に泥を《《食べさせ》》、霊力を与える。
「あの男の場所を示せ」
 ペンデュラムに命じると、宝石はぶるりと震えたかと思うと一つの方向を指し示した。……よし、これであの男を追える。
「早く見つけて、早く殺さないと……!」
 焦る心のまま、私はアパートを飛び出した。

***

ペンデュラムは確かに、確実に男のいる方向を指し示している。なのに、何故か見つからない。白い白衣の影が見えたかと思うと、男の姿は消えている。そしてペンデュラムはまた別の方向を示すのだ。それはまるで男が瞬間移動しているかのような……。
「……あぁ、もう! どうして捕まらないの!?」
 繁華街の隅で叫ぶ。逃げられるのは何度目か。今まで『失敗』したことなんてなかったのに、こんな風にからかわれるなんて。
「(……そう。私、からかわれてるわ。捕まりそうで捕まらない、そんな距離で遊ばれてる……)」
 あの冷たい目をした地味な男にからかわれている。その事実に、言いようのない感情が湧き上がる。怒りか、羞恥か……。今まで感じたことがない激情が私を突き動かした。
「こうなったら、正面から乗り込んであげるわ」
 怒りのまま、私は繁華街の奥へと進んだ。
 人気が少し少なくなったその場所、地下へと続く階段を降りると大きな両開きの扉があった。無骨なコンクリートビルには似合わない装飾過多なその扉を私は迷うことなく押し開いた。
 中から眩しいほどの光に襲われ、思わず目を瞑る。目をかばいながら開くと、そこにはギラギラとした光に溢れた世界があった。見目麗しい美女に光沢の良いスーツの男。金や銀や宝石を身にまとった人間がシャンデリアの光に照らされて照明のごとく光り輝いていた。『金』の光に思わず眉間にシワが寄る。こういう世界があることも知っているし、何度もターゲットにしてきたことはあるけれど……こうして正面から見るのは初めてだった。なんとなく不愉快な気持ちになる。汚い金でその身を輝かせているからか。それとも――『光』が私には与えられなかったものだからか。
 ターゲットの男は毎晩ここに入り浸っているとの情報がある。もちろん、情報源は依頼主だ。ここにいればターゲットと接触できるが呪術師としては最終手段である。多くの人に見られることはあってはならないからだ。……でも、私はそのタブーを犯してここにいる。そうでもしないとあの男を捕まえられないと思ったから。
 早く男を見つけて殺そう。……そう思って光の中へと足を踏み入れたのだけれど。
「おやお嬢さん。こんな夜更けにこんな場所に来てはいけないよ」
 目の前を、見知らぬ男に塞がれた。
「ここは大人の遊び場なんだ。お嬢さんくらいの年齢だと興味を持つかもしれないが……ここはね、悪い大人がたくさんいる場所なんだよ」
 目の前の男は上等なスーツを着て、派手な時計をした『金持ち』の男だった。人当たりの良さそうな笑みを浮かべているが眼光は鋭い。こちらを値踏みするように睨みつけている。
「……ご忠告感謝します。用事が済めばすぐに帰りますので」
 私は手短にそう言って男の横を通り過ぎようとした。でも、男はそれより早く私の前に立ち行く手を塞ぐ。
「いやいや、そうは言うけどね。ここはお嬢さんが思っている以上に危険なところだ。一人だと身ぐるみを剥がされてしまうかもしれない。……そうだ、おじさんと一緒に行こうか。私はここで顔が利くからね、お嬢さんを守ってあげることが出来る」
 そう言って男はニッコリと笑った。胡散臭い笑みだった。
「(失敗した……)」
 私は心のなかでため息をついた。ありえない『失敗』をして気が動転してすっかり自分の容姿のことが頭から抜け落ちていた。どうして繁華街を人目につかないように歩いていたのか……それはこんな風にならないためだったのに。目の前の男はこちらをギラギラした目で見ている。本家にいるときに感じる視線だ。私を値踏みし、それからどう料理するか想像している目だ。不愉快で不愉快でたまらない目だ。
「大丈夫です、気持ちだけで十分です。さようなら」
 カバンを両腕で抱えてその場を立ち去ろうとする。が、横から強い力で肩を掴まれた。顔を上げると成金のおじさんとは別の男がいた。ガタイが良くて力が強そうだ。……現に肩を掴む力はかなり強い。そう簡単には逃げられそうにはなかった。
「へぇ? 可愛い顔してんじゃねぇか。体つきもいい。こりゃかなりの上玉だな」
「おいおい、藤堂くん。女性に乱暴してはいけないな。……ほら、お嬢さんが怯えているじゃないか」
「乱暴? まだ乱暴なことしてねぇよ。ヤるのは今からだって。なぁ?」
 男の手が肩から腰にまわる。身体を這うように、輪郭を確かめるように蠢く。気持ちが悪い、気色が悪い。とっさに身を捩るも男はびくともしなかった。
「っはは! だーいじょうぶだって、心配すんなよ。痛いことはねぇって。ただみーんなで気持ちよくなるだけだからさ、な?」
「は、離して……っ!」
 カバンを相手に押し付けるようにして距離を取ろうとしてみた。それでも男は少し身を捩らせるだけで腕が離れることはなかった。
「(あぁ、もう! これも全部あの男のせいよ! 彼が逃げなければこんな面倒なことにはならなかったのに……っ)」
 ありえない失敗。失敗を取り返そうとして更に失敗を重ね。最終手段をとったのに顔を見られるだけじゃなくターゲット以外の人間に絡まれる――。
 私の頭は限界を迎えようとしていた。
「(……――もう、全員殺そう。この建物にいる人間全て呪ってやる。そうすれば何もかもうまくいく)」
 そう、そうだ。全員殺してしまえばいい。私の身体を弄る不愉快な男も。私を舐めるように見る不愉快な男も。私の顔を見た人たちも。そして、ここにいるだろうターゲットの男も。
 みんなみんな、死んでしまえばいい。そうすれば、『失敗』もなくなる。
 そうと決まれば動きは早かった。私はカバンに手を入れ、丸いものを握りしめて外へと取り出し、そのまま地面へと叩きつけて――
「――これは没収させてもらおうか」
 ……手から、玉がするりと抜けた。
「え……」
 思わず気の抜けた声が喉からこぼれた。
 ヨレたシャツに濃いグレーのスラックス。薄汚れた白衣。青白い顔に少し長めの黒髪が影を作る。
 あの男だ。ターゲットの男がいつの間にか隣に立っていた。
「なっ……!」
 男が現れたことに気づかなかったのは私だけじゃなかったらしい。痴漢男も成金男も唖然とした顔でターゲットの男を見つめている。
「ふむ、これは……。『呪い』の触媒だということは分かるが、何なのかさっぱり分からんな。まぁこれで俺を殺そうとしたんだろうが……。……ん?」
 まるで感情のない瞳が私の呪具を見ていたかと思うと、男は急にこちらへと顔を向けた。
「――!」
 そこには、闇があった。黒くて底がない、何も見えない。それどころかこちらが飲まれてしまいそうなほど、恐ろしい闇がこちらを見ていた。悲鳴が出そうになるのを耐える。……この男は何故こんな目をしているの? どう生きていればこんな恐ろしい目をすることが出来るの……。
「なんだ、君……少し見ないうちに随分変わったな」
「は、はい……?」
 ターゲットの男は呪具に興味がなくなったのか、ポケットにしまい込みながらこちらに顔を近づけてきた。
「――っ!?」
 闇が迫る。少し硬い髪が顔に当たる。鼻先がぶつかる。吐息が触れる。
 視界いっぱいに、あの男が、いる。
 理解、出来なかった。思考が止まる。世界から音が消える。心臓の音が体中をめぐる。指先が震える。なのに感覚がない。手は冷たいのに顔は熱くて、何故か視界が涙で歪んでくる。
「ん……」
 目の前の闇はじっと、私を見ている。すぐそこで、私を見ている。動くことは出来ない。視線をそらすことは出来ない。
「――てめぇ、ナメた真似してんじゃねぇぞサイコ野郎!!」
 凍ったように固まった私を動かしたのは、鼓膜が破れそうな程大きな罵声だった。
「!!」
 意識が戻った私はとっさに男に飛びつく。狙うは白衣のポケット。他のものはどうでもいいが、これだけは渡すわけには行かない。
「おっと」
 男は避けることなく私を受け止め、そのまま後ろへ跳んだ。直後、派手な音がして私達のいた場所に何かがぶつかる。
拳銃チャカを持ち出してきたか。本気で手段を選ばないつもりだな」
「け、拳銃って……!?」
 慌てて音のした方に顔を向けると、そこには鬼のような顔をした大男が鈍く光る黒いものをこちらへと向けていた。……拳銃だ。本当に、拳銃だ……!
「……ん? 顔色が悪いな、美少女女子高生呪術師」
「そっ、その呼び方はやめて! すごく馬鹿っぽいわ!」
「そうか? まぁ俺は君の呼び名などどうでもいいが……呪術師である君があのオモチャを怖がるのか?」
「当然でしょ!? 呪術でどうにか出来るわけないじゃない!」
「そうなのか? こう、呪いで軌道をそらしたり、そもそも撃つ前に殺したりは出来ないのか?」
「馬鹿言わないで頂戴! 呪術ってそんな簡単なものじゃないの! もっと準備に時間をかけなければいけないし、時間や場所だってちゃんと考えなきゃいけないし、儀式に使う道具だってすぐに集められるものじゃないから普段からためておかなきゃいけないし! そう簡単なものではありません! 呪術は万能じゃないんです!!」
「そうか。それは……その、悪かったな」
 そう謝った男の表情は変わらなかったが、声が少しだけ気まずそうだった。
「オラ、逃げるんじゃねぇ!!」
「きゃっ!?」
 焦るこちらのことなど気に留めず、向こうはどんどん撃ってくる。私は慌てて頭を下げる。本当に、どうしてこうなったの!
「こっちだ」
「えっ……ちょ、ちょっと!」
 腕を引っ張られ、無理やり走らされる。抵抗するまもなく私は男に連れ去られる。後ろから「待て!」という鋭い声とともに何度も何度も大きな破裂音が響いた。
「おい、美少女呪術師、もう少し早く走れないのか」
「だ、だから呼び方!! こ、これでも全力ですわ! あなたが、早すぎるんです!」
 おかしい。私だって女だけど呪術師だから体も鍛えている。いざというときに体力がなければ何も出来ないから毎日体を鍛えてるっていうのに。普通の女子高生どころかアスリートより体力も脚力もあるはずなのに、この男は私以上のスピードで走っている。今も私の腰に手を当てて、急かすように後ろから押している。
 隣を見上げると涼しい顔をした男の顔があった。今、短距離世界記録を更新する勢いで走っているとは思えないほどだ。……と、男がこちらをちらりと見た。黒い、闇のような瞳が私を捉える。一瞬、心臓が止まった気がした。
「……まぁ、ダンスは得意だからな」
「じょ、冗談言っている場合!?」
「本当のことなんだが……」
 男はそう言って視線を少し下に下げた。……こころなしか、哀愁が漂っているような気がする。顔も無表情だし声色も一定で感情が読みにくい人のはずなのに……。
 男はどんどん薄暗い路地を進んでいく。私はもうどこをどう走ったのかわからない。今どこにいるのか、これからどこへ行こうとしているのかさっぱりだ。それがまた不安でたまらない。後ろから襲われていることも怖いし、自分がこれからどうなるのかわからないのも恐怖だ。足元からひやりとしたナニかが這い上がってくる。心臓が痛くて、胸元のスカーフをぎゅっと握りしめた。
「もう……もう、もう! どう、して! こうなった、の、よ!! 『失敗』なんて、許されない、のに! ターゲットは急に、消えるし! 追いかけても、全然追いつけないし!! 正面から乗り込んで、なのに追いかけられ、て! 最後の手段、なのに! 『失敗』しちゃ、ダメなのに!! もう、もう!! もう!」
 叫んだ。心のまま、力いっぱい叫んだ。どうしようもない感情を吐き出したかった。急に叫んで喉が痛くなったけれど、それすら気にならなかった。
 イライラする。ぐるぐるする。ふわふわする。
「――うん、いいな」
 男は小さくそう呟くと、背中を押していた手を腰に回した。あっ、と思うまもなく私は男に引き寄せられる。抵抗するまもなく私は男の胸に顔をぶつけた。
「いったい……。急に、なにを……」
 ぶつけた鼻を押さえながら視線を上げると。
「――君が欲しい。俺のモノになれ」
 ……ひどく楽しそうに嗤う、悪魔の顔があった。
「初めて見た時の能面のような君はつまらなかったが、今の君はいい。とてもいい。仮面が剥がれた君の感情はとてもいいものだ。その怒った顔をずっと見ていたい。その激情を浴び続けたい。潤んだ目で睨むのもいい。……あぁ、全てが良い」
「ちょ、ちょっと……」
 そのあまりの剣幕に、豹変ぶりに、私は思わず後ずさった。さっきまでは、感情が全く無いどこか頭のネジがとれたイカれ男だったのに。ちゃんと「人間」だったのに。今の男はどうだ。無表情だったはずの顔はとても楽しそうに嗤っているし、闇のようだと思った目は不気味なほど輝いていて……それは、「人間」の形をしたナニカだった。
「…………。」
 一歩下がる。すると、男は一歩こちらへ近づいた。
 二歩下がる。すると、男は二歩こちらへ近づいた。
 三歩下がる。すると……背中が、壁にぶつかった。
「あ……」
 男が近づく。顔が近づく。「人間」の形をしたナニカは嬉しそうに微笑みながら、私を見つめている。
「名前……名前が欲しい。君の名前は?」
 楽しそうな声だ。
 頭の中で警鐘が鳴り響く。答えてはいけない。早く逃げろ。本能がそう叫ぶ。私だってそう思う。こんな危ない男に関わってはいけない。任務のこともある。適当に髪の毛を奪って逃げたほうがいい。……そう、分かっているのに。
「……つた。井上、つた」
 私は、彼に名前を告げていた。
 胸が早鐘をうつ。理由なんて分からない。名前の分からない感情がお腹のなかをぐるぐる回っている。顔が熱すぎて、くらりと意識が飛びそうになった。
 私の名前を聞いた彼は少し目を見開いたかと思うと、本当に嬉しそうに目を細めて笑った。
「《《蔦》》か……。なるほど、君によく似合う名だ」
 そうして彼は私の手を恭しくとり、指先に口づけた。
「つた。俺のモノになれ。怒りも絶望も全て、俺に捧げろ。俺の傍で、俺の隣で、俺と共に生きろ」
「…………。」
 なんてひどい口説き文句だ。そう思うのに、口からは嫌味の一つも出てこない。ただ、彼の言葉が私の中に染み込んでいく。
 私を見下ろす彼の目は暗く、それでいて吸い込まれそうに澄んでいて――。
「でも、私……」
 その瞬間脳裏をよぎる、暗い人影。灰色の重い世界。不愉快な視線。……そうだ、私は逃げられない。あの家から逃げられない。あんな家大嫌いだって思うのに、あそこ以外私の居場所なんてない。私には、行く場所なんてない。私はずっと、あそこにいなければならない。逃げてはいけない……。
「……呪詛か」
「…………え?」
 彼が、何を言ったのか分からない。言葉が理解できない。ジュソ? じゅそ? それは、一体どんな意味の言葉だったか……――。
「呪術師の娘が呪詛にかけられてるとは……流石、《《異能》》家といったところか」
 彼は私の頭を撫でる。子供のような扱いに恥ずかしくなった。……でも、こんな風に頭を撫でられたのはいつ以来だろう。私の頭をなでて「よく頑張ったね」と笑ってくれたのは……あれは、いつのことだっただろう。
「案ずるな。俺は遊び人で勝負師ギャンブラーだ。欲しいものはどんな手を使っても手に入れる。お前も必ず手に入れてみせる」
 彼は私の頭を撫でていた手を背中に回し、その腕の中に私を閉じ込めた。弾かれるように顔を上げれば、視線がぶつかる。長い前髪の向こう、手を伸ばせば届く距離に暗く輝く闇色の目があった。
 顔が熱い。心臓が痛い。足元がふわふわする。意識が熱に溶けていくのに、彼から目をそらすことが出来ない。何故かずっと見ていたくて。何故か、もっと見ていたくて。私は――私は、どうしてしまったのだろう。
 私を見つめていた彼はフ、と口元を緩めると、私の耳元に口を寄せた。

「……――逃げられると思うなよ、つた」

楽しげに嗤う彼に、私は熱に浮かされた頭のまま小さく頷いてしまった。

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