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苫米地博士の「生命素粒子理論」と「インド哲学の「プラーナ」

前回の記事では、TVで直接、苫米地博士が紹介した超情報場仮説と、生命素粒子理論についてお話ししました。

「生命素粒子」とは聞いたことがあるような、無いような、ぴんと来ないことがあるかもしれません。

今回は、もう少し生命素粒子について掘り下げたいと思います。

生命素粒子は前回の記事で書いたように、中国の「気功」の気であり、日本文化でよく日常から慣れ親しんでいる、「病は気から」という言葉で表されるような言葉として表現されています。

「生命素粒子」はインド哲学でいうところの「プラーナ」のこと

この言葉は、インド哲学では、「プラーナ」と呼ばれている概念と殆ど同じであると考えます。

プラーナとは、ウィキペディアによれば、

「プラーナ(梵: प्राण、prāṇa) は、サンスクリットで呼吸、息吹などを意味する言葉である。日本語では気息と訳されることが多い。

インド哲学では、同時に人間存在の構成要素の1つである風の元素をも意味している。そして生き物 (すなわち息物) の生命力そのものとされ、やがてその存在はアートマンの根拠にまで高められた。」

とあります。

また、最近紹介した記事に紹介した書籍「あるヨギの自叙伝」や

同著者によるパラマンサ・ヨガナンダ著「人間の永遠の探究」

にもプラーナによる説明記述があります。

それらの記述によれば、

「生命を構成する、知性を持つ、原子よりも精妙なエネルギーの火花で、ヒンズー経典では集合体をプラーナと呼ぶ。・・・(中略)・・・その本質は、神の想念の凝縮したもので、幽界を構成する実質であり、物質宇宙の生命原理である(人間の永遠の探究p483)。

原子や電子は盲目的な力であるが、プラーナは固有の知性を持った力である。例えば、精子と卵子の中にあるプラーナは、胎児の発育をそれぞれの持つカルマ(※注:役割や機能に近い意味と考えられます)に従って誘導しているのである(あるヨギの自叙伝p431)。」

とあります。

重要なのは、プラーナには、なんと知性があるということです。

生命素粒子理論の苫米地英人博士は、その著作「苫米地英人 宇宙を語る」

において、時間について言及しています。

多くの一般的な常識感覚では、時間は「過去」→「現在」→「未来」というように流れているという認識が主流です。

時間は「過去」→「現在」→「未来」という視点

ブラックホール研究の権威スティーブン・ホーキングはこの立場をとり、ビッグバンから物質宇宙は誕生し、

物理空間である宇宙は、エントロピーの増大の法則(存在する物質は、拡大し、バラバラに崩壊する運命にある)に従って成り立つという見方をしました。

すると、ホーキングは著書「ホーキング、宇宙を語る」で「宇宙がなぜ存在しているのかという疑問に答えようがない。」「創造主は必要なのか?もしそうだとすれば(中略)創造主を創造したのは誰なのか?(p239)」と語り、その謎の解明には至ることが出来ませんでした。

時間の流れを「未来」→「現在」→「過去」と捉える視点

しかし、時間の流れを「未来」→「現在」→「過去」という逆向きに捉える認識も現実的に可能です。仏教のアビダルマ哲学ではすでに「時間は未来から過去に流れる」と言っていました。

未来が原因であり、現在は過去と捉える。

すると、超未来(数百位億年、数兆年・・・それ以上の未来。AIやより高度な地球外生命体とのハイブリッドも超えた知性となると、現在のわれわれの頭脳では理解不能な領域です。)の人間(人間と呼んでいいのかは、もはや議論の余地がありますが・・・)、というか知性的な存在があります。

この超知性的存在がビッグバンを起こした、ということが導かれます。この超知性的存在を神と呼びたい人がいても不思議じゃありません。

苫米地博士は、同著作で『情報空間では、物理空間の場合とエントロピーが逆向きになり、時間がたてばたつほど情報は整理化され、構造化され、整合性を持つようになります。

つまり情報空間においては、エントロピーはビッグバンの時が極大です。そして最終的に情報空間においては、エントロピーが極小の状態、つまり「空」(悟り)に行きつくでしょう(苫米地英人 宇宙を語るp14~15)。』

この苫米地博士の主張と、インド哲学のプラーナの概念を比べるとどうでしょうか?

インド哲学では、プラーナを神の想念の凝縮したものと捉えます。

神の想念からビッグバンが誕生したという苫米地博士の超情報場仮説と、その超情報場を構成しているという、生命素粒子理論。

そして、神の想念の凝縮したものがプラーナであり、プラーナは幽界を構成する実質とするインド哲学。

とても相関関係になるように見えるのは、私だけではないでしょう。

「プラーナ≒生命素粒子」、「幽界≒超情報場、生命情報場」

に近い関係性があるのでは?と考えてしまいます。

カルトと思われていたスピリチュアルの概念が見直される時代

苫米地博士は、その天才的な知見で、知っている方にとっては説明の必要がはないのですが、

仏教、キリスト教、道教、神道、哲学、認知科学、数学、物理学、音楽…などあらゆる知識に秀でているので、

それらのジャンルを抽象度の高い視点から俯瞰して見た時に共通し、整合性のある景色が見えているのだと感じます。

現代は「科学」という知見が最も影響力をもち、現実を運用しています。

その科学的な知見と整合性を取りながら、スピリチュアルと科学が、少し前までは水と油で喧嘩ばかりでしたが、高い視点から見ると、宗教も科学もある大きな景色の一部だということがわかります。

今後ますます、科学的な知見からも、プラーナや幽界と言った概念など、これまではカルトよと呼ばれてあまり関心を持たれなかったものが見直されていくのではと思います。

未来はより整合的で、整理されたものになってゆくならば、これまでのように、思想や宗教、立場からの争いは徐々に少なくなっていく、素晴らしい未来が見えてきます。

その未来の到来を加速させるために必要な知識として、生命素粒子とプラーナの知識はとても重要であると思われます。

















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