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生命場からのインスピレーションを受け、命と循環する。

東日本大震災。福島原発、メルトダウン。

2011年3月初旬。長男が出生し、義理の母が家に来て、妻の面倒を見ていました。

3月11日。東日本大震災。マグニチュード9.0。巨大津波。原発事故。巨大津波。巨大な余震、首都直下型地震への連想・・・。

1歳の長女と0歳の長男がいる中で、大変な時期に子育てをすることになった、と感じていました。

原子力発電所で仕事をしていた経験があった叔父が珍しく数年ぶりに電話をくれました。また、普段は動じない落ち着いた方々が、原発事故について真剣な表情でこれからの日本について語っているのを身近に観ていると「思っていたよりもただ事ではないようなことが起こっているのだ」ということに気がつきました。

普段は、放射性物質や半減期などの知識とは無縁の生活を送っていたので全く状況が分からなかったのですが、これを機会に福島原発がどのようになっているのか、放射能汚染とは、放射性物質とは何なのか、ということを独自に調べていきました。

福島原発事故は、3つの原子炉が相次いでメルトダウン、原子炉や格納容器が納める原子炉建屋が次々に爆発するという未曾有の原発事故に発展した事故によって放出された大量の放射性物質は福島の地を汚染し、原発周辺に住む住民は避難を余儀なくされました。いまなお、放射線量がきわめて高い帰宅困難区域に指定されています。

実は、事故発生直後に極秘裏に行われた「シミュレーション」によると、こうした帰宅困難区域は東日本全体に及ぶ可能性がありました。最悪の場合、東日本全体がチェルノブイリ原発事故に匹敵するような大量な放射性物質に汚染され、原発から250キロメートル半径の住民が避難を強いられるという現実的な予測がありました。それは東京を中心した首都圏も含まれます。

実際に、東京の飲料水は放射能に汚染され、ペットボトルが配給される事態も起きました。

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なぜ、福島第一原発事故は、「東日本壊滅」を回避できたのか。

事故後、10年にわたって1500人以上の関係者や専門家を取材、事故を検証してきた「NHKメルトダウン取材班」は、東日本壊滅が避けられたのは、いくつかの偶然が重なった「偶然の産物」だったという分析を明らかにしました。

「東日本壊滅」が避けられたのは・・・そう、たまたま、偶然だったのです。

政府はあまり情報を出してくれないので、私は毎日海外サイトの「SPEEDI(スピーディー)」を見て、放射性物質の染料を気にしながら生活していました。

緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI):原子炉の温度、気圧、放射線量などのデータをERSS(緊急時対策支援システム)から受け取って、SPEEDIが持つ地形情報と気象予測とに照らし合わせ、原発周辺地域の被曝量を予測し、避難を指示すべき区域を決定するための情報を提供するシステム。

妻と子は、外出すると放射性物質汚染が危険なので、ほぼ家の中で子育てをすることが余儀なくされていました。

育児ノイローゼに拍車がかかり、母子ともに大変でした。

何時、東日本全体が壊滅状況になるか分からない中で、変わらず仕事に行くことに抵抗を感じていました。

政府は「直ちに健康被害が起こる状況ではない」を連呼するばかりでしたが、少なくとも私個人が調べた範囲では、安穏と毎日を過ごせる状況ではない、という強い感覚が起きていました。

同じ年代の子どもがいる同僚は、放射線汚染については特に気にしていない様子で、普通にお花見をして楽しんでいることを話していました。

子どどもについては「一応気を付けてけておいた方がいいのでは・・・」と私は話し続けていました。が、なんだかその姿勢を取り続けていると、TVや世間の見解から浮いていることに気がつきました。

同僚も、なんとなく迷惑そうな様子で会ったので、最後に自分の考えていることと、それを担保にするより客観的なデータや専門家の見解を伝え、その後、私は何も言わなくなりました。

政府は原発の事故のレベルを当初レベル3~4と報道ししていましたが、その後、レベル7に見解を改めました。

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福島原発で危機を命がけで回避しようと戦っている方々は「フクシマ50」と言われています。自分の住んでいる、250キロ先には未曾有の危機が迫っているが、目の前に繰り広げられている日常生活の人々はいつもと変わらぬ平和な毎日を過ごしています。

そのことに強い違和感を感じて毎日を過ごしていました。

あれから10年以上経ちました。事故はずいぶん風化され、人々の記憶から薄まってきています。

しかし、現代は世界規模で大きな出来事が起こっているにもかかわらず、毎日、仕事と家の往復の日常が変わらないのでその危機に気がついていないだけではないのか・・・と個人的には感じています。

私は何ができるのだろうか・・・。

チャリティ

私の家庭は、私が幼いころから様々な宗教に出入りしていた影響で、個人的に「世界平和」というものにとても関心があるようです。

それは意識が高いとか、道徳的、倫理的に優れているとか、正しいことに関心がある、というわけではなく、宗教というものは突き詰めると世界平和への貢献が主要テーマであるので、不思議でも何でもありません。

私がまだ幼い子供だったので、子どもに「刷り込まれた」概念としての世界平和であったように思えます。

そのため、以前は「自分が世界平和のために何が出来るのだろうか・・・」ということを、いつの間にか常に自問自答していたものでした。

そのため、「祈り」や「チャリティ活動」ということを熱心に行っていたように思えます。今にして思うと、それらの活動のモチベーションは100%ではないにしても、どこか何かしらの見返りを求めていたりしていたのではないかと、分析します。

何故ならそれらの活動は、振り返ってみると、楽しいというよりも、義務感や責任感といった情動が多かったように感じるからです。

非二元やノンデュアリティの意識と、具体的な行動や活動は別の次元のものだと分かったときは、大きな安堵感が生まれました。

「チャリティ」も「祈り」も、「人道支援」も「しなければならないものは何もない」のです。それらは概念で幻想です。

「私」という分離した概念は幻であるならば、自己に目覚め、自分の自己(魂)が望むことを、抽象度を上げて行うことで、それは全ての事象に肯定的に影響することになります。

その本質無くして色んな人道支援やチャリティ活動をやっても、それはどこか陶酔した自己犠牲や見返りを求める何らかの交換条件でしかありません。

支援は支援なので一時的には価値のある者でしょうが、長続きしません。それは人格的に未熟とか道徳的に良くないからとか、そういうわけでなく、単なるエネルギー量から換算した、客観的な現象として生じているだけです。

つまり個人という抽象度レベルのエネルギーでは、貢献や支援といった現象にはエネルギー量が足りないということで、「善い悪い」ではありません。

人間力や人生観というよりは、どちらかと言えば、知識と技術の水準の話です。

抽象度を上げる

万物は情報で出来ています。情報は関係性によって生まれ、情報は情報量の大きさによって、階層的に連なる構造を成しています。

「抽象度を上げる」とは、視点を上げて物事を見ることを指します。例えば、下図は左から右に向けて、抽象度が高くなっていきます。

図1:「個人」→「家族」→「職場」→「地域」→「国家」→「世界」→「人類」→「生命」→・・・

抽象度を上げることで、個人では見えなかった情報や仕組みが見えるようになります。

私という自己は全てに繋がっているので、私という存在を起点にして抽象度を上げれば、その肯定的な影響は広範囲に繋がり、届くということです。

そして、情報とはエネルギーであるので、自己(魂)から発した情報(エネルギー)は何かしらの影響を及ぼします。

このことに気がつき、私は無理やりチャリティをしようとすることを辞め、縁があるチャリティやボランティアに力を注ぐようになりました。

そして、自己とは図1にあるように抽象度を上げれば潜在的にエネルギーとして繋がって大きな生命と一つです。

「私」の自己が尽きない情熱や衝動がある時、それは、大きな生命の一つの表現としての情熱と同じものです。

こうして私は精神世界やスピリチュアルについての探究と、それを文章にまとめて書き表すことを始めました。

私は、この文章がどこか誰か、必要な人の些細なインスピレーションにでも繋がり、世界の意識の海に一滴の気づきの波紋になり、一つの生命がより穏やかに、幸せを感じることに繋がることを意図しています。

洗脳

チャリティ活動などは、とても貴重で重要な活動です。しかし、それを脅迫的、義務的に行うと、窮屈で圧迫されるエネルギーが生まれます。

そのエネルギーは個人の健康を害し、他者にも悪影響を及ぼします。そしてその団体や活動は、空中分解をするか、恐怖と抑圧、義務感と責任感で維持し続けるというようになります。

私が関わってきた団体の全てが、そのような傾向を多かれ少なかれお持ち合わせていました。

責任感や義務感が全くなければ無法地帯になってしまいます。その傾向が「悪い」わけではなく、バランスが取れていないと視野狭窄に陥り、カルト化してしまいます。

そして、自分が「正しいことをしている」、「善である」という無意識のフィルターが創られます。そのフィルターは、自分以外の情報をシャットアウトし、安心感や安定感をもたらしてくれる心地の良いものです。

洗脳です。

しかし、それらは小さな団体であれば客観視することが出来るので、矛盾に気がつき、その環境から出ることが出来ます。しかしその規模が大きければ大きい程、矛盾や危険性に気がつきにくくなります。

家や学校、地域、地域の宗教というレベルでは気がつきやすいかもしれませんが、国家レベルになると、海外に出て自国を客観視しなければならないので、少しハードルが高くなります。

それが世界規模になると、かなり気がつくのが困難になるでしょう。

では今の世界はどのような状況なのでしょうか!?

よく適応したナチ党員

私は普段は心理士としての仕事を生業にしています。

カウンセラーとして、日々様々な悩みや問題を伺っています。

『学校に行けない、仕事に行けない、家族と会わない、友達がいない、そもそも生きるのが辛い・・・』

これらの悩みは多かれ少なかれ誰しもが持っているものです。

これらの悩みの共通は、学校、仕事、家族、友人、人生や世界という「場(状況や出来事)」に適応できていないということです。

ある特定の「場」への適応障害を起こしているということです。

※適応障害:ある特定の状況や出来事(転勤、配転、新しい人間関係など)が、その人にとっての主観的な苦悩(とてもつらく耐えがたく感じ)を生み、そのために気分や行動面に症状が現れるもの。たとえば憂うつな気分や不安感が強くなるため、涙もろくなったり、過剰に心配したり、神経が過敏になったりなど。

「適応」という言葉が何となくクリーンなイメージがある人もいるかもしれませんが、「適応」という言葉は良くも悪くもなく、ただその現象についた名のことです。

私たちは抽象度が低いと、とにかく「適応」しなければ、適者生存の衝動本能が芽生え、何も考えずに「適応」することばかりに意識が向きます。それに対して、強い薬を飲んででも適応しなければと思い込みます。

【適者生存】:生存競争で環境に最も適したものだけが生き残って子孫を残しうること。 スペンサーの造語で、ダーウィンが「種の起源」で自然選択より的確な語であると述べた。

そこには強い不安と恐怖が潜んでいます。本能的に「適応」しなければ「生き残れない」という強烈な体感が生じるからです。しかしその感情は非常に抽象度の低い感情で、錯覚や妄想によるものが殆どです。

意識の研究者、ケン・ウィルバーは著書「万物の歴史」でこれらのことについて述べています。

『例えば、文化それ自体が病にかかっているとき、それに自己を適応したり統合させたりすることになんの意味があるのでしょうか?よく適応したナチ党員とはなんでしょうか?それは精神(メンタル)に健康と言えるのでしょうか?ナチの社会によく適応できない個人と、どちらが正気なのでしょうか?                                           こうしたことを考えることは非常に大切です。』

これをもとに、先ほどの悩みや問題を考えてみます。

『学校に行けない、仕事に行けない、家族と会わない、友達がいない、そもそも生きるのが辛い・・・』

・学校:世界では偏った思考や歴史を教えている学校は少なくありません。

・仕事:ブラック企業や利益優先主義で環境を顧みない仕事は沢山あります。

・家族:虐待家庭は山のようにあります。

・友達:「いじめ」を誘発する交友関係は何年も前から問題です。

・人生:人生は誰かが与えるもののでしょうか?誰かや何かのレールにあわせるのが人生なら、その何かは正しく、優れていると誰が決めたのでしょうか?

私たち人間は、コミュニティを前提とした存在です。だから「適応」するということは生きていくうえで必須の概念です。

しかし、適応障害のような状況に陥った際に、むやみやたらにそのコミュニティーに適応しようとすると、社会や世界、生命全体としてもっと危険な状況に陥ってしまう可能性があります。

まずは、適応しようとしている過程や学校、仕事、友人、そして人生が全体の生命としてどうなのか!?そもそも自分に合っているのか、「必要以上に重要だ」とと思わされていないか!?プラスなのか、マイナスなのか!?ということを落ち着いて見極める必要があります。



生命場からインスピレーションを受け取る

世の中に絶対的な物は何一つなく、たとえその時適合し「良い」者であったとしても、次の瞬間は、状況が変わり適合しないものになります。

福島原発での経験から、この数年の世界と社会情勢を見ていると、このことをいつも考えてしまいます。

未知の現象に対して、分からないことだらけなのに、何故世界はあたかも「これが答えだ」というような発想が出てくる雰囲気を創るのだろうか・・・。

「東日本壊滅」が避けられたのは「偶然の産物」でしたが、私たちが生まれ持って持っている本能的な危機回避能力を注意深く機能すれば、「偶然」ではなく、ほぼ必然で、この危機を回避することが出来ます。

それは不安と恐怖という「適者生存」という同調圧力に通じる扁桃核優位の情動ではなく、「やりがいがある」、「充実している」、「誇らしい」という前頭前野優位の情動を起点とします。

そして、

抽象度を個人や家族、・・・国家という低い領域ではなく「生命」という場に視点を上げることが必要です。

私たちは皆生命という一つの場を共有しています。

その視点からみると、その生命場から、インスピレーションが降ってくることは珍しいことではなく、「当たり前」のことと考えることが出来ます。

そのインスピレーションを大切にして、勇気をもって表現することで、一つに繋がる生命の場は「喜び」を感じ、枝葉末節に繋がる様々な人間や動植物に肯定的な影響を及ぼします。

その循環が、古来から言われてきている、生きるということに繋がるかと思います。

今回の記事は婉曲的な記事でした。




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