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長崎に見る『運命は必然ではない「自由」だ』

「運命は必然ではない、自由だ。」

というタイトルの表題は、2017年にNHKで放送された若き哲学者、マルクス・ガブリエルの言葉です。

私はこの言葉にとても感銘を受けました。

運命とは、ここでは自分の生まれや育ち、両親がどのような存在で、どんな状態なのか、という自分の意志と力ではどうにも変更不能な現象について指します。

自分の能力や経済的な状況、人間関係については、解釈に個人差がありそうです。

そこで、運命に出会うということで、私自身の出身地である長崎について思い出してみました。

(下は長崎の夜景です。)

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長崎はわからん

長崎は、かつて日本で唯一海外に開かれ、様々な人や文化が上陸しました。

わ:和(日本)、か:華(中国)、らん:蘭(オランダ、ポルトガルなどの西洋)との交流の中で、長崎独自の文化が育まれてきました。『食』も、その中のひとつで、色んなものをひとまとめにしておいしい料理にした長崎ちゃんぽんは有名です。

宗教においても、神の島というところでは、鳥居をくぐったところに大きな美しいマリア像があったり、

マリア観音というキリスト教と仏教を融合させたような像が在ったりします。

また、祈りの三角ゾーン

という教会、神社、仏閣という一堂に三つの大宗教が混在していて、また近くには道教の施設もあったりととにかく色々です。

宗教もチャンポンにして怪しからん、とい思う人もいるかもしれません。

なんだか八方美人というか、一貫性がないというか、初志貫徹的でないというか・・・とマイナスに捉える人もいるかもしれませんが。

これは平和の象徴でもあることと、様々な宗教や文化、教え、価値観を包摂した懐の広さを感じさせるものがあります。

それは様々な文化交流で華やかな文化や外観、観光地や美しい景観の背景に

外国人の流入、隠れキリシタン、原爆投下という歴史的な事実を含め、長崎という地は多くの「苦悩」が錯綜した地であるように感じます。

苦悩と救済

「苦悩」があるところには「救済」があります。

その救済の象徴、現象として、長崎という地には様々な宗教が派生し、伝統と文化として残り続けているのではないでしょうか。

その歴史の軌跡を、長崎では楽しみながら学べる観光地として全国に愛されるようになりました。

それが長崎という地の「運命」であったということになります。

幼少期、そのような地で育った私は、神、仏、自然の原理、というものはすべて同じものだという認識が育っていたのかもしれません。

そして学生の頃にヴェーダの瞑想に出会い、それをきっかけに非二元、ノンデュアリティ、宗教と科学の統合という分野に強く惹かれました。

時代は進み、世はスピリチュアリティという言葉に対し、以前のような怪しい雰囲気が薄くなりました。

いまだに二元論的な価値観の違いで緊張と摩擦、争いはあるにはあるのですが、それらを包摂するような価値観も芽生えてきています。

今日では、長崎のように様々な価値観を抱きかかえるその意識や懐の厚さが重要になってくると感じています。

私は長崎という街の出身者として、長崎が様々な文化や宗教、価値観を包摂し、美しい街としてその存在があるように、少しでも価値のある情報を発信出来たらと思っています。

最後に冒頭で紹介したマルクスガブリエルの言葉を紹介します。

<運命は必然ではない、自由だ>

                      マルクス・ガブリエル

運命というものはあるのです。

誰もが運命を持っています。

あなたが運命を見出せるか否かが問題です。

問題はあなたが運命を感じているか否かです。

あなたの人生で、深い意味があると思えたとき、

あなたは自分自身に近づいているのです。

運命は必然を意味しません。

運命は自由を意味します。

自分が自由になれたとき、はじめて運命を見出すのです。






















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