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就学相談で、相談を受けに行った際「支援学級なんかに入ったら、人生終わりですよ。」と言われた件についての相談 ーその2ー

『5歳男児(知能指数70~80、診断「情緒障害」、マイペースで、こだわりが強い。)
就学に当たって就学相談を受けに行った際、特別支援学級に進学しようかを相談したら、「支援学級なんかに入ったら、人生終わりですよ。」等と言われ、とても不安になった。両親で話し合い、入学の際には普通学級に進学することにしたが、今後、普通学級で過ごす事が難しくなってきた場合、どうすればいいのか?』


<質問に対しての解答>
・このような言葉の背景にある時代的・心理的メカニズムを知る。
・抽象度の高い思考を保護者が持ち、希望と可能性をみる。
・子どもの社会や学校への「適応」という発想は程々にし、「創造性」を意識する
・ そのために、子どもの得手不得手などの特性を理解する。
・ 就学前なら尚更、運動や栄養素という側面での改善を意識する。
・スピリットの働きを意識し、感謝に気づく

―解答への解説


保護者や教育者としての無意識の防衛反応として、特別支援学級に入れることへの恐怖心が喚起される
 就学相談で『「支援学級なんかに入ったら、人生終わりですよ。」等と言われ、とても不安になった』ということについて最初に考えてみたいと思います。
 
 私も20年ほど教育や福祉、医療、発達領域で相談を続けていると、「特別支援学級に入ると人生が終わる」という考えを潜在的に抱いている親御さんはもちろん、教員、専門家とも接してきました。無意識は正直です。隠せません。専門家だろうが何だろうが、そのような意識があるのは珍しくありません。
顕在意識ではそのような考えは「時代遅れだし」、「差別的だし」、「的を得ていない」、ということは重々分かっているつもりなのですが、無意識の反応はそうではありません。当然、無意識の反応は顕在意識よりもはるかに影響力があることはよく知られていることですし、無意識は簡単に変わるものではありません。顕在意識の微々たる力で無意識の思いを抑圧しようとしても無駄です。無意識とはそういうものです。
そして、そのような傾向は私自身を含め、ほとんどすべての人にあるものだ、と抵抗せずに受け入れてしまったほうが楽です。そのような俯瞰した視点を持つ方が、より良い道が見出しやすくなります。

私事ですが、私の息子は小学校4年生まで通常学級に在籍していましたが、5年生から特別支援学級に転学しました。その間、常に「通常学級がいいのか、特別支援学級がいいのか?」ということで常に悩み続けていました。その悩み続ける背景には、今回の「特別支援学級に入ると人生が終わる」という信念がどこかにあったのだろうと推測します。

 そもそもこの「特別支援学級に入ると人生が終わる」という考えはどこから来たのでしょうか?この「特別支援学級に入ると人生が終わる」という考えに対して、「差別的だ」「極端だ」と感情的に反応することもあるでしょうが、 
基本的に、就学相談の方が悪意を以てそのような発言をしたとは考えられません。また、特別支援学級へ転学するという意見が現れると、ご夫婦のどちらかや、祖父母がこのような考を強く抱き、転学に対し頭ごなしに反対して、家族での意見が一致しないという現象が多くみられます。

この中でよくあるのが、普段からお子様と直に関わっているお母さまは特別支援学級への転学への意思が固まっていても、仕事で忙しくあまりお子様を見る時間が母親よりも少ないお父様や、祖父母に強く反対され、お母さまの家庭での居場所がなくなり、強いストレスにさらされてしまう様子をよく見かけてきました。すると、状況は改善されず、足踏みばかりで時間ばかりが過ぎ去るということもよくあります。

この場合の、父親と祖父母が「特別支援学級に入ると人生が終わる」という考えを持っていたとして、その考えはどこから来たのか!?ということについて考えてみたいと思います。

「特別支援学級に入ると人生が終わる」という考えはどこから由来するか
 現在の小学校入学前後のご両親の世代は30代後半から4,50代あたりの方々が殆どでしょう。人間の判断基準は、過去のビリーフシステム(信念体系)から選び出され、決定します。その際にビリーフシステムが形成される時期は多くは幼少期や思春期、青年期の記憶がベースになります。つまり、ご両親の信念体系は1970年~1980年の出来事や社会情勢、価値観が無意識に大きな影響を与えているということです。

1970年代から80年代の時代は、発達障害の理解は一般的には殆ど皆無でした。1980年福祉大国デンマークでは、「知的障害や自閉症、アスペルガーを持つ人々は子供を作ってはいけない」という法律があったそうです。さすがに、その後、この法律は差別的だということで撤廃されますが、福祉大国デンマークでさえもこのような法律が作られていたという事実を鑑みると、世界はもちろん、我が国でも障害を持つ人々に対する意識というものがどういうものであったのかということが容易に推測されます。現代よりもより偏見的で、差別的であったということです。

 現在の小中学校のお子様の保護者の生まれた世代は1970年代前後で、その親、つまり祖父母は戦後の世代です。学校教育や世論の空気は、戦争という不安と恐怖の情動が色濃く残っていた時代です。そして、その時に開発された知能検査を基に、学校や社会に「適応」するために様々な教育が行われてきました。

「適応」とは


 「適応」という言葉には適者生存という概念があり、そこではその環境に適した個体は上手く生き残り、そうでない個体は衰退していくという競争原理という概念があります。
戦後は共産主義と資本主義の米ソ冷戦の時代を経て、ソ連の崩壊後、資本主義の影響力が現代に至っても最も大きな影響力を持っています。資本主義が悪というわけではありませんが、資本主義は「競争原理を勝ち抜く者が幸せに、豊かになっていく」という刷り込みが文化や習慣、教育でなされています。これは、人類史において、生存をかけて培ってきた防衛本能が由来しています。
こうして環境に「適応」しなければ「死」を意味する、というように無意識に脳と心に連想されてしまう強烈な意識が培われています。

 このような歴史は、人類史で必要な過程でした。人間の発達段階では、乳児期、幼児期、児童期、思春期、成人期、老年期・・・というような発達段階があり、それぞれの段階には必要な役割と機能があります。そして、児童期を飛ばして思春期や成人期に到達するという段階を飛び越えた発達はありえません。常に順番に発達していきます。
 人類の発達段階にも集団としてそのよう発達段階があり、資本主義を経験している現在は、さながら思春期のようで、まだまだ情緒的に不安定で色々厄介事を起こしやすい時期とも言われています。だから未だに戦争がこの惑星では終わることができません。
 そしてその発達の速度はIT技術の恩恵も有り、加速度的に早まってています。

抽象度の高い視点を維持する

 このような抽象度の高い視点と、お子様の就学と何が関係あるのか!?という思いがよぎるかもしれませんが、このような視点が発達障害の保護者の方々には今後必須になってくるかと思います。
なぜなら1970年代までの教育概念では、「適応」という概念が常識として扱われ、昔からある環境とシステムが明日以降も確固として保証されているのが前提の価値観でした。「適応」とは「過去への最適化」ということです。その価値観を採用するならば、目の前のシステムに「適応」することが最も合理的な教育方法であることは言うまでもありません。しかし、今後は資本主義はまだまだ居残り発展するのでしょうが、その価値観はやり尽くされると自然と溶けていく宿命にあります。その溶けていく過程を、私たちは今目の前にしているのです。

 「知的障害学級に通うと人生が終わる」という言葉を振り返ると、過去の競争原理主義的な発想であれば、その言葉が発せられる感情も理解できます。競争原理では、知的生産性を以て学歴を獲得し、生存環境に有利になりうる就職先を得て、家族と子孫を守ることに費やすことにエネルギーを費やすからです。どの分野に進み、活躍するにしても学校や社会が求める知的な力(IQ)はその中心になっている時代でした。
 しかし知的生産性で獲得できる学歴や職歴、資産、金銭というものと、「幸せ」は相関しないことは誰でも考えれば分かることですが、強烈な社会の影響ではそれを表現し、意識する余裕はほとんど多くの人にはありませんでした。
 だから「知的障害」というラベルが強烈な恐怖心を刺激するのは、自然なことです。

時代がどのような方向に進むか

 では現代はどのような時代かというと、資本主義は前期の激しい競争時代を過ぎ去り、より穏やかな後期に移行しています。まだまだ激しい競争があるとこは否めませんが、資本主義自体に限界を感じ、問題提起をしている風潮も増えてきています。
時代は進み、大災害やパンデミック、戦争、AI、メタバース、ベーシックインカムというワードは一昔前まではSFのようでしたが、今では現実的な概念として受け入れられています。こうして1970~80年代の価値基準はどんどん溶けていきます。崩れて溶けていく船に「適応」するという発想で挑むこと自体がナンセンスなのです。
今は「適応」ではなく、「進化」という概念がもっと重要な時代になっています。

これまでは競争という原理から「生存」に価値を最も重きを置いている時代でしたが、今後はその存在自体が「在ること」に価値が置かれる時代へと移行していきます。

 つまり、これまでは生き残るために自分の個性や特性を削り、その環境に適応して、生存するために特定のトロフィーを獲得することが人生の宿命でした。そこでは競争が前提なので、競争のルールのための画一的な価値観が存在し、その価値観からはみ出さず、従順に従っていくことが至上命題でした。だから、自分の個性云々よりもまずは画一的な価値観を理解し、取得し、染まることに全てを有します。そうなると、生存率は高まる一方で「自分は何が好きで嫌いか」がわかりにくくなってしまう弊害が生まれていました。こうしてうつ病などの病が流行りました。

しかし、今後は自分の特性を生かし、自分にしかありえない価値を提供するという時代にシフトして行っています。SNSやYouTubeでの自分の個性を生かした情報配信で収入を得るというのはその魁でしょう。つまり自分の特性をより理解し、自分の得意なもの、好きなものを追求し、表現することで、誰かの役に立つということです。個人のありのままの特性がそのまま価値となります。それを不特定多数の誰かに届けるインフラがIT技術で、日々快適に更新されています。そしてそのプラットホームを利用するにはほとんど経費を必要としません。

 とはいえ、必要最低限の読み書き、計算能力はまだまだ必要でしょう。そこまでまだAIは担う技術はありません。

親や大人たちが意識すること

こうした背景を考えると、私たちの大人や保護者の行うことは、まず自分自身の生い立ちでインストールされた古い価値観を見抜くことです。それは不安と恐怖の情動が喚起したときに、反射的に出てくる考えと感情です。
そうなると、「生存するために有利な環境を探して適応しなければならない」という強い不安が行動の原理になります。不安と恐怖、焦りから、子どもが環境に「適応」できない姿を見たり、考えたりすると、親の防衛反応から激しい恐怖と不安、そして怒りが喚起され、子供や家族にぶつけてしまいます。すると情動中枢がまだ未発達な子供はモロにその影響を受けて、必要のない傷を負うかもしれません。

つまり、親自らが自身をセルフモニタリングし、不安と恐怖の抽象度の低い思考から、感謝、喜び、健やかさ、という抽象度の高い思考に移行する訓練を日々行うことが前提であり、最も重要なことです。
このことは何よりも重要です。これがしっかりできていれば、本来は、子供はもう勝手に育ってしまうというぐらい重要なことです。

また、お子様への取り組みに関しては、子どもの特性を理解し、長所を伸ばし、表現するスキルを身に付ける、ということになります。また、必要最低限の(義務教育卒業程度)の学力を基準に勉強を行うことも重要です。

そうした保護者と親たちの環境の中で、お子さんを育てていくことで、子ども自身が情緒的に安定し、自己肯定感の高いこどもに育ちます。

前頭前野を鍛え「創造性」を育むために日常意識すること

また、より具体的に言えば、お子様の脳を発達させるという意味合いでは「適応」ではなく、進化に関連する「創造性」を育むための脳内環境を意識することが必要です。
それには手っ取り早い方法として「運動」が挙げられます。週3回1回30分で、楽しければなんでも良いのですが、息切れしてドキドキするような運動を行うことで、前頭前野の成長が促されることが知られています。そのための習い事を意識しても良いでしょう。
加えて、神経発達障害や、知的障害傾向のある子供は、アレルギーが多いことが知られています。グルテンや糖質などに影響されて、神経系が育ちにくい状況があるかもしれません。

 運動や栄養素についてあまり言及されていませんが、非常に重要なファクターなので、調べて取り組まれるのも価値があるかと思います。

学校や医療、そして家族が無意識に「適応」に重きをおく方々であった場合・・・

これは一例ですが、私たちは情報的な生命体なので、そのようなビリーフシステムを潜在的に抱いていることが伺えます。そして、無意識の反応として、とっさの判断や、重要な判断を下すときに現れてきます。無意識は、過去の生存に関する記憶を優先的に記憶し、未知な状況や、人生や進路など重要な判断を求められるときに、反射的にあらわれます。

つまり「特別支援学級に行くと人生が終わる」という言葉の背景には、過去の不安と恐怖から反射、反応的に表現された生理現象として見ることができます。これらの助言は心の底から善意を以て行ってくるので、非常に厄介だったりもします。

 人は暑ければ汗を書き、寒ければ震えます。そうして体温を一定に保つホメオスタシスの原理があります。同様に、心理的な驚異や未知なもの(進路を含む)に遭遇すると、無意識の防衛反応が機能し、過去のプログラミングが反射的に起動します。要するに、「特別支援学級に入ると人生が終わる」という非論理的な言葉から推測できるように、この言葉は不安と恐怖から反射的に表現れた生理現象のようなものです。
人の咳やくしゃみ、おならやゲップと同じようなもので、生理的反射であって「意味はありません」。だいたい公務員の就学相談の方々が、子どもの未来を見通せるわけがないですし、人生が終わるという言葉にも意味を見出せません。
 「ああ、不安と恐怖で反応しちゃったんだな・・・」と優しく関わってあげてください。

IQは固定的なものではなく、環境や練習で変化し挙げられる。しかもそれは一生涯を通じて

 そして、適切な指導と環境、運動に取り組めば、IQは10~20は上がります。私が実際に関わった事例では、就学前にWISCという知能検査ですべてのスコアが70前半であったお子さんが、2年ほど家庭での養育的な関わりで、すべてのIQ指標が20以上上がった児童がいました。

 観察してみると、環境の変化や集団の変化に適応しなければいけない場面では、ついて行くことに困難さが見られはしますが、今後も神経系は成長を続けるし、自分の得手不得手を知り、それに適した環境を自身と周囲の人々が理解するようにすれば良いかと思います。

 IQが変動しないというのも、過去からの思い込みでもあります。とくに子どものうちは専門家でも予想外に成長するという事実ははよくあることです。

 常に可能性と希望を見据えた上で、現実的な選択や方法をチョイスしていくとが大切かと思います。

スピリチュアル的な観点から


発達障害のお子様を持つと、保護者、特に母親は「自分がいけなかったせいだ」「自分がこのような状態で生んでしまって申し訳ない」という罪悪感をかけてしまう場合が良くあります。


 しかし、私たちの認識は非常に狭く、人間という生命現象を全て理解することは不可能です。何故障害を持った子どもを産んだのか、何故自分の息子は障害があるのか、何故こんなに苦労をしなければならないのか・・・という疑問や悩みは「人間側からの視点」にすぎません。

 アスペルガー障害の存在がいなければ人類はいまだに石器時代をさ迷っていたであろうという学者の見識もあります。
 これは発達障害や知的障害を持つ存在は、定型発達をしている人々の作り出す集団の認識では把握できない世界を認識し、捉えることが出来ます。そうして、新し発想や未知の知識、概念を持ちて人類を進化させてきました。発達障害の偉人の人々はちょっとグーグルで探すと膨大な著名人が検索されます。

 つまり、安定を求め過去への最適化を優先する大多数の人々とは逆に、「進化」という現象を引き起こす役割が発達障害のある人々にはあるということになります。
 「適応」という安定を求めようとする働きだけだと、「進化」「創造」という役割が果たせなくなってしまいます。

そして、人類は膨大な先祖の思いの集大成として今に至り、その道のりには様々な苦しみや犠牲の内に今の私たちがいます。まだまだ戦争や人災、環境破壊はあるものの、全体としては私たちはお互いに思いやりを抱き、人間以外の生命にも意識を向けだし、地球にも親切であろうとする動きも、人類史上かつてない程芽生えています。つまり、進化成長しているということです。
その進化成長の働きを、「スピリット」と呼び、スピリットの見える形での存在が発達障害や障害のある方々とも言えます。発達障害人の独特な価値観や認識様式で私たちの社会や人類の意識の進化を促しているとも見て取れます。

 そういうスピリットの視点で子どもの存在を眺め、スピリットへの感謝とサポートを意識することで、穏やかに進化の方向性に導かれるでしょう。そのような具体的な時間を一日の内に忘れないように取ることで、生存欲求から「適応」させようとする社会や家族の圧力から解放されるきっかけになると思います。

スピリットとは、138億年前に物質から生命を誕生させた「働き」のこと

138億年前に宇宙が誕生し、生命、人間が誕生する確率は、ジャンボジェット機の部品が嵐に吹き上げられ、偶然それらの部品が組み合わさり、ジャンボジェット機になって飛び去って行くほどの偶然が重ならないと生じないと言われる確率です。

つまり宇宙には単に偶発が積み重なってできた現象以上の者であり、言い方を変えると、そこには目的と意思があるということです。

その目的と意思の背景にあるものが「スピリット(働き)」であり、この不可思議な力に人類は神を見ました。

私たちは、怪我をすると栄養状態が良好であれば何もしなくてもその怪我は「治癒」に向かいます。その治癒メカニズムはある程度人間に理解できても、最後の何故その働きが生ずるのか?については謎のままです。

その治癒という不可思議な力が、ビッグバンから今に至るまで働き続けた「スピリット」の力で、この記事を読んで何らかの感想や意見、感情を掻き立てる働きを司るものです。

その力が個人を形成し、人間関係を作り、社会、世界を創っています。

そのスピリットは治癒、進化、統合という方向性を持ちます。

つまり私というエゴの限られた視点で発達障害を眺めるのではなく、リラックスしてスピリットの働きが十分に働くようにすれば、個人や家族、社会とのかかわりにおいて穏やかで調和な流れに進みます。

その流れを意識する時間を持つことはとても有益で、それを「祈り」と呼んでいました。

もし参考になれば幸いです。

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