「私の意識」ではなく、「意識の私」にすると、あらゆる問題が氷解する
人間は意識を持っている!?
「人間には意識がある」という何気ない言葉は、通常、疑問なく用いられます。
「人間には意識がある」という表現は人間という存在が「意識」を所有しているという言語表現です。
意識は、脳と中枢神経が無いと発生せず、知性も脳と中枢神経が無いと生じない、ということが一般科学的な常識的見解です。
そうなると、最も脳が発達している人間はこの地球上でもっとも高度な意識の情報処理を行うとうことが推測されます。
二元論的な科学論はこうした見解から、下図のようなヒエラルキーを元に文明を築きました。
そうなると、脳も中枢神経もない植物は、意識も知性もないということになります。
人間は生態系のTOPであり、それがゆえに、他の種を「所有」することが出来るというわけです。
こうした見解は、西洋科学的な見解で、ネイティブインディアンや古神道的な東洋の古来の思想とは異なるものでした。
しかしそれは本当にそうなのでしょうか!?
研究で分かった、植物の意識と知性
ここに面白い本があります。
植物学の第一人者が初めて明かす驚愕の知的世界。植物は、人間と同じく“予測"し、“学習"し、“記憶"し、仲間どうしで“コミュニケーション"をとっている。つねに鋭い感覚で情報分析し、生き残り戦略を“考えている"のだ。最新研究が突き止めたその真の姿を知れば、畑の野菜も観葉植物も、もう今までと同じ目では見られなくなる。
この本によれば、植物は知性を持ち、学習し、もちろん意識もあるというわけです。
例えば南米のボキラという蔓(つる)植物は、近くに生えている植物に擬態する能力があります。葉の大きさや形、色まで何度でも変えられますが、なぜそんなことが可能なのか、その仕組みはまだ謎のままです。
この植物に、人口で創られたプラスチックの植物を隣に置くと、そのプラスチックの植物の姿形を擬態します。これは、植物には視覚があるということ、植物と植物でないものを見分ける識別能力があるということを示していると考える研究者もいます。
考えて見ると、「知性」という現象が自然界にそもそも備わっているで、植物は昆虫とのやり取りで受粉を行う仕組みを作ったり、自分の種子を動物に付着させて、自分の繁殖テリトリーを広げたりする戦略を取ることが出来ています。
そうした人間が存在する前からある「知性」が動植物を進化させてきました。
ここには脳や中枢神経は介在していません。
人間は「意識」については、何もまだわかっていないことが多すぎるのです。
こうした発見から代は進み、様々な分野でパラダイムシフトが起こり、どうやら自然界や実際の状況は、上図のヒエラルキーではなく、下図のヘテラルキーの方が現象を正確に表しているのではないかと考えられるようになりました。
※『ヘテラルキー:ヒエラルキーという階層固定性に相対する概念であり,各要素・各層が多重的に,並列的に,入れ子構造をとるネットワークを指す. ヘテラルキーは時にヒエラルキー的階層構造をもつが,それら階層は固定的でなく柔軟に入れ替わるような特性をもつ.』
個々では、「所有」というよりはさまざまな事象が「循環」しています。
エゴの特性である所有の概念
人間は、脳と中枢神経を持ち思考します。その思考形式は、これまでの科学的二元論による慣習から、上記のヒエラルキー型の見解を習慣的に行ってしまいます。
そうなると、自分がこの地球上での最高に発達した頭脳を持ち、思考をする存在だと錯覚してしまいました。
人間は文明を築き、ロケットを飛ばし、月に行くことが出来ます。そのようなことが出来る生物はこの地球上では人間しかいません。
しかし、その文明で排出される廃棄物を分解するのは放射性物質に至るまで、全て植物を含めたこの地球という知性による働きで、人間はそのような力は持ち合わせません。
こうした事実を忘れ、人間は「私の土地」「私の家畜(動物)」「私の植物」というように、人間以外の生物を所有しているという錯覚をおこします。
その所有の思考は、一度抱いたものをなかなか手放すことが出来ずに、ずっと維持し続けます。
そうした「私の○〇」という慣習的な思考は、
「私の悩み」「私の心の傷」「私のコンプレックス」「私の問題」「私の・・・・」というようにあたかもそのような心の問題が「実在する対象」かのようにホールドし続けてしまいます。
だからそのような心の問題や、傷を自分の物であるがゆえに、何とか自分の責任で解決したり、治癒したりしなければならない!!
と主観的に思い込んでしまいます。
そうした思い込みがも何千年、何万年と続いていており、その効率的なシステムが次世代に受け継がれ続けているので、それを信じて疑いません。
こうして医療や文明が発展しているので、その病や問題のある状態を、結局は個人の問題に還元してしまうようになっています。
「人間の中に意識がある」のではなく「意識の中に人間がある」
こうしてみると、脳や中枢神経を持たない植物が、驚くべき思考能力や意識があるように、実際には脳や中枢神経には意識の有無は関係ないとも言えます。
意識はもともと元来からある無限の器のようなもので、その中に意識の在り様を表現する様々な生命体が存在している、というのが正しい見解の様に思えます。
つまり、「意識」を植物、イルカ、昆虫、…人間など様々な「デバイス」としての生命種が表現しているというわけです。
その「意識」とは、大きさも場所もない、非局在性のものです。意識の器の中にある様々なデバイス(人間や動植物)が通信し、循環することで、この地球という惑星に存在しています。
動物がエネルギーを摂取(食べる)と、その老廃物は体外に排出され、自然界で循環し、様々な形を変えて何かのエネルギーに変化しています。
エゴという所有という概念が、様々な悩みや痛みを所有し、ホールドし続けると、循環しません。その存在は、老廃物をいつまでもため込んでいる生命体と同じようなもので、いつかは瓦解します。
自分が抱いている悩みや問題というものは、実は、自分自身のものではなく循環すべき心的エネルギーです。
このことに気がつけば、あとはホールドするエゴの力を弱めればいいだけになります。
弱めると、自然の循環作用としてあとは自動的に排出されるものは適切な時と場所で排出されます。
そうして、自然に新しいエネルギーを自然界(外界)から取り込むことで、自然な循環が始まります。
以下に自然な排出が行われるか
問題は、エゴがなんでも自身の物として抱え込みすぎることから始まっています。
そのため、「エゴのホールドする力」を緩めればよいということになります。
ホールドするには、力が入っています。つまり、エゴを緩めるということには、「リラックス」という状態が手っ取り早いということになります。
リラックスとは、弛緩した状態です。
物理的なアプローチとしては、思い切り運動した(力を入れた)、後は疲労から力が抜けるという現象が起こります。
これが適度な運動の意味合いです。
また、瞑想をすることは、自我(エゴ)よりも抽象度の高い位置から俯瞰して観察する行為にあたります。
エゴよりも高い視点で俯瞰し続けると、エゴは緩み始めます。凝れば瞑想習慣の利点です。
また、全ての心理療法の共有する部分として、「気づき」の作用というものがあげられます。
セラピストと自身が置かれている、問題や悩みを俯瞰して眺めることで、今まで無意識に行っていた思考や行動パターンが見えます。それは様々な「気づき」が得られます。その過程には弛緩(リラックス)が常にあります。
その「気づき」そのものに「癒し」という実際のヒーリング効果があり、瞑想と同じ作用をもたらします。
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