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「意識の地図」と「社会システム」そして個人の日常

日本社会と高齢者のタンス貯金についての考え

先日、今後の日本社会の経済の在り方について、ある評論家の話をたまたま聞いていました。

話の内容としては、

質問者:「この国には、何千億円、何兆円という老人の方がタンス貯金をしている。それを使わせて吐き出させないと、経済が活性化しないんですよ。そうしないと少子化、高齢化社会を乗り切れず、経済が発展しない。どうするんですか!?」

評論家のこの考え方への感想:『この考え方が僕は嫌いだなと思いました。「高齢者がお金を持っているから使わせないと」、ということを鵜吞みにして言う人はいる。しかし、高齢者というのは単独で高齢者であるというわけではなく・・・家族の縁のない方もいらっしゃいますが・・・その方にはだいたい家族がいるはず。高齢者の財産は、家族問題であるはず。

その家族問題であるはずの、おじいちゃん、おばあちゃんのお金をどうするのか、という議論をすっ飛ばして、国とかがどうにかして高齢者の財産を吐き出させなければ経済が発展しない、という考え方は本当に嫌。

日本という国は、おい先がなく不安でお金ぐらいしかすがるものがなくて、不安で、タンスに貯金しているおじちゃん、おばあちゃんから金をどうやって抜き出すのか、盗み出すのかを考えないと経済発展というのが出来ないのだったら、経済発展などしなくても良いと考えてしまう。

根が天邪鬼だからそう思ってしまうのかも。

経済発展というのはあくまで幸せのためにあるのであって、その幸せというのは何かというと、少なくともおじいちゃんやおばあちゃんを騙してお金を奪い取ることが幸せな国家であるはずがない。
そんなことやって、品性を下げてまで得た幸せというのは、悪い結果しかないというのは、何となく昔話的な正義と悪というのを信じていますので、それは良くないものだろうと思っちゃうんですよね・・・

と思ったそうです。

僕もこの評論家の方と概ね同じ見解です。しかし、僕が気になったのは、この評論家の方が考えている、「高齢者からお金を奪って経済発展をする国家は、そもそも幸せになれない」、という考えの根拠が、

『品性を下げてまで得た幸せというのは、悪い結果しかないというのは、何となく昔話的な正義と悪というのを信じています』

というように、何となく倫理的、慣習的、良心的に間違った感覚がする・・・というような曖昧な思いがベースになっているということです。

混迷する世界の情勢で続けられる議論

環境問題、ウィルス、人口増加、進みすぎるテクノロジー、少子化、高齢化社会など、混迷を極めているのは日本だけではなく、その国もそれぞれの状況下で試行錯誤しています。

そして、これといった決定的な政策や考え方が見いだせていないため、上記のような議論がなされています。

そして、倫理的、良心的には上記の評論家の意見が個人的にはより抽象度が高く、本質をついています。反対に、質問者の発する考えの背景には「焦りと不安、そして問題解決には人間性ではなく、数字である、というような合理的な価値判断」が見え隠れします。

質問者のこの価値観や考えを、単純に未熟な思想だと切り捨てたり、感情論で抑圧しても、この議論は収まらないでしょう。質問者がそのような考えと価値観を持った背景を察すると、今まさに迫っているのっぴきならない切迫した状況があるのかもしれません。

対して、評論家の立場は、身分的にも状況的にも幾分か安定した状況下にいるので、そのような余裕のある思考が出来るのではなかろうかと思います。

いずれにせよ、上記の議論は一つの例であって、さまざまなところで似たような議論が交わされ続けています。そして、その議論の結果は、

切迫した側が、『倫理性や人間性をあまり意識しないで、合理的な考えや価値観から、具体的で即効性のある考えを前面に出す』

ということに対して、

余裕のある立場の人が、『より抽象度の高い視点から、人権や人間性を大切にした上での価値観や考え方を述べますが、その考えのベースは、「曖昧」で、「根拠に乏しく」「性善説に根差した」具体策のないものばかり。理想的で、現実実のないふわっとした論理で終えてしまう』

ということがよく見受けられます。

議論の構造

環境問題、医療、政治、経済、人間関係などの分野で、

A:「人間性や品性を無視した、合理的で即効性のある考え」

VS

B:「人間の存在価値を認め、理想を追求するが曖昧で根拠が薄い考え」

というような議論は良く見受けられます。たいがい状況が非常に切迫している場合は、Aの方が採用されます。

ということは視点を変えて考えると、「ひっ迫させる状況下に人を置くと、人間は大概Aの価値観や考え方を採用する生き物だ」ということになり、

Aの考えを広めよう、維持しよう、とする人々や団体は、意図的に社会や世界に「ひっぱくさせた状況」を作り出せば、自分たちのAという思想やシステムを維持し、展開させやすいということが見えています。

Aの考え方の人々は、もともと切迫した状況下での価値判断を行うことに長けているので、そのような考えを実行するのは手慣れたものです。

対してBの人々は、その考え方や価値観の担保となるものが、「昔話では・・・」といあるように、道徳や良心などの曖昧さゆえに、切迫した状況下では非常に説得力が乏しくなります。

また、価値観の担保となる事柄が、結局、曖昧で弱いので状況によってはBの人自体の価値観や態度がコロコロ変わってしまうかもしれません。

こうした議論のはてなき繰り返しが、何年も、何十年も繰り返されています。

その中で、発展するのは、科学技術だけで、それに伴って環境や状況はどんどん変化します。それに対して人間の議論がその間、平行線で止まってしまっているので、社会状況と人間の考えや意識の差がどんどん広がっています。今この瞬間にも、その差は広がるばかりです。

そして、ついに、人間は考えことを放棄し、「考えるここと」を代わりに行ってくれる人工知能を開発しています。

この状況から新しい展開に移行するには

考え方、価値観、環境というものは、目標(ゴール)があることで変化し、生まれ変わります。

例えば、「船を作ろう」とう目標(ゴール)があるとすれば、「造船所」という環境が構築されます。

それに伴って、何のための船なのかー経済・戦争・人道支援・・・さまざなに用途があるーということも同時に見出されます。

その「船を創る」という目標(ゴール)に向けて、日々の生活の予定が決まり、そこに意味や価値観、生きがいなどが生まれます。

人間の歴史は、人類という巨視的な視点で言えば、戦争・飢餓・疫病という災厄をほんの最近克服したといわれています。

そして、遺伝子操作技術、AI技術の発展で、病気を無くし、自身の都合で生命をコントロールし、永遠の生命にまで手が届いています(「サピエンス全史」「ホモデウス」 ノヴァル・ユア・ハラリ著より)。

これは、物質的な豊かさはとうに追求しつくした、ということを意味します。しかしながら、先進国(特に日本)では、若者の自殺率は上昇する一方で、世界の鬱病などの精神疾患も上昇するばかりです。

結局人間は、幸せではないのです。

物質的なゴールは達成され続け、人間の能力の殆どはAIにとって代わられるようになりました。

優れた絵画、文学、音楽、医療なども現時点のAIの技術で、生身の人間は叶いません。AIがいれば、この地球はコスパ良く回っていくことでしょう。

こうして人類は、種としてそのアイデンティティの危機を迎えているのです。

この危機が起こる原因は、先ほど述べたように「ゴール」が無いからです。

物質的に満たされつくした人間は、次に新たなゴールを見出すことが出来なくなり、生きる意味の喪失感を味わい、絶望しています。

そして、根拠のない議論を続け、時間ばかりが経過します。

新しいフロンティア

先ほど「ゴールがないので、現状に意味が見いだせていない」、という話をしました。

ゴールがないと、どこに行けばいいか、何をすればよいか途方に暮れてしまいます。

ゴールを達成したと思いこむと、活動も意欲も低下し続け、やがて死を迎えます。

しかし、そのゴール設定の場所が物質的な世界にのみ向けられていたので、分からなくなったのです。

実は「意識の世界」「精神の世界」というものは、数は非常に少ないのですが、かなり昔から実直に研究がなされ続けてきました。ほとんど知られていないのは、その価値が知られていなかったからだと思われます。

人間は、子どもから成長し、児童期、青年期、成人期、老年期を経ます。

それらの時期に伴って、意識(世界をどう見るか、感じるか)の段階も変わります。

だいたい青年期まででその精神構造や意識の発達は成され、後はその能力を出来るだけ維持し続ける一生、ということが一般的ですが、実はそうではありません。

全世界の平均的な意識と発達段階の到達点が、青年期に達成される能力と意識状態であるだけで、本当は人間には殆どあまり知られていませんが、さらにそれ以上の発達段階があり、それに伴った意識状態が存在しています。

その高次の意識状態は、ちょうど子どもが月を見たときに「お月様が僕を追いかけてくる」という自己中心的な視点しかとられない状況をほほえましく眺めるように、低次の意識の段階を否定せず、包み込みます。

こうした意識の行動と発達段階が「実際に存在する」のです。

この意識の発達の特徴を知っておくだけでも、人間の意味や価値感の喪失から抜け出すことが出来ます。

何故なら、その高次の意識についての知識を知るだけで、無意識はその方向に舵を切り出すからです。

この知識を知るということは、丁度、霧深い登山で、ついに登頂を果たし、退屈を極めていたところに、霧が晴れ、前方にさらに高い山が見え、開けた山道が合わられた、というような状態に例えられます。

退屈で仕方がなかったのならば、好奇心からその山道を登ることは頭から離れません。いつの間にか、その山道を登る準備をし出している・・・ということが起こります。

このような状況が、現在の人間の状態なのかもしれません。その発達段階の知識は、登山で言えば「地図」の役割を果たします。

こうした意識の新たな段階を、ただ知識として知っただけでも、実際にその意識や発達段階に到達していなくても、少子高齢化社会や環境問題などについて議論をすることはとても意味のあることです。

丁度それは、子どもが見よう見まねで大人の行っていることをまねしようとすることと同じだからです。そのようなモデリングがあって、発達の学習が開始されるからです。

モデリングは、実際見るのが学習効果は効率が良いのですが、イメージだけでも意味はあります。だから、その発達の地図は必要で重要なのです。

今までは、次の山道への道も認識できず、地図もなかったので、不毛な議論を酌み交わすしかなかったのですが、山道と地図を手に入れたら、あとは、多少価値観や考えが異なっても、目的地に向けて協力して進むだけです。

次回の記事は、その人間の意識の発達段階の簡単な地図を紹介させてもらおうと思います。

地図を単に知識として知っておくだけで、山道への道を歩くモチベーションも変わり、効率性も変わり、いつの間にか日常生活にも好まし変化が起きます。



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