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その笑顔は強く輝いていた

2011年3月11日、巨大地震が東日本を襲った。
そう、「東日本大震災」である。

あの日、誰がその地震を予測できたのであろう。
ただ、いつもと変わらない時間が流れていたのだ。
誰も予測などできるはずがない。

あまりにも突然に、あまりにも広範囲にわたって被害が出てしまった。
岩手県沖から茨城県沖まで約500km、さらには東西約200kmが震源域とされた。
その範囲、およそ10万平方キロメートル。
数字では理解できるものの、広大すぎて想像もつかない。

それら広大な範囲の中には、のどかな港町や観光地もたくさんある。
なにより数多くの住人が暮らしているのだ。
長年、綺麗な景色や水産物などの資源を守り続けてきた地元民がいる。
その暮らしを、震災が一変させてしまったのである。

しかし、どんなことより一番に辛いのは、数多くの犠牲者が出たことだ。
長く短くもあったあの瞬間に、大勢の尊い命が失われた。
辛い悲しいで言い表せることではなく、到底割り切れることでもない。
遺族の深い悲しみは計り知れないだろう。


私は、東日本大震災を考えるときにいつも思うことがある。
それは、「あの時間差がなければ」ということ。

東日本大震災では地震による直接の被害よりも、その後の津波による被害や犠牲が大きかったと思う。
地震発生後から津波が押し寄せるまでの間が長すぎた。
たしか、45分とか50分ないくらいに記憶しているが定かではない。
だが、これだけの時間差があれば一安心するのも当然である。

それは自分に置き換えても同じことだと思う。
これ程までに時間差があれば、誰しもが一安心してしまうだろう。
同様の被害データがあったわけでもない、誰があんな津波を想像できたか。
しかも、あんなに広範囲の津波を。


私が住んでいる地域でも大きな揺れがあったが、テレビを見ていた私でさえもホッとしていたのだ。
その一安心した矢先の出来事だった。
信じられない、信じたくもないほどの海水が街を飲み込んでいった。

それも一つの地域ではなかった。あっちもこっちもだ。
被災に遭われた方には申し訳ないが、同情の言葉さえ出なかった。

言葉が出ない...考えることもできない

容赦なく流れ込む海水は、黒い濁流となってどんどん流れ込んでくる。
家や車は次々と飲み込まれ、すべてをさらっていった。
住民はみんな避難しているのだろうか。
私の頭ではこれだけを考えるのが精一杯だった。

であれば、住民の人たちはもっともっと精一杯だったはずだ。
目の前で起こった現実を受け入れる余裕もなく、非難に全力を尽くされたと思う。
想像を絶する恐怖を目の当たりにした気持ちは、私にはわからない。
ただ、失う気持ちは痛いくらいにわかった。

というのも、岩手・宮城・福島の三県に関しては、被災地のほとんどを訪れたことがあったからだ。
小さい頃や10代の頃の話だが、旅行などで訪れた場所だった。
私の過去では数少ない楽しい思い出がある場所も、被災地となってしまったのである。


震災後、甚大な被害と多くの犠牲を出した被災地を見て回った。
直後にすぐ行けなかったことが、いまだ悔しく思う。
一瞬、被災地は見せ物ではないという考えも浮かんだが、その現状を忘れてはならないと思い直した。

東日本大震災は、絶対に風化させてはならない出来事だ。
辛く悲惨でもある出来事だが、確かに生きた尊い命があったのだから忘れてはならない。
そして、本来あるべき各地の素晴らしい景色が存在したことも。

地震や津波がなければ失われることはなかった数多くの尊い命に、あらためてご冥福をお祈りいたします。


私が被災地を回ったのは、瓦礫を集めて少し落ち着いた頃だった。
震災の日、テレビのニュース映像で言葉を失ったことを思い出した。

そして今、自分の目の前に広がっているのは跡形もない街の姿。
街の音や車の騒音、人々の声も聞こえない。

あの日以上に言葉が出ない......

集められた瓦礫の山を見た。
あの瓦礫の一つ一つが家や街の建物を支えていたのだと思うと、胸が苦しくやりきれなくなった。
私にはある意味遺産に見えたのだが、廃棄物として処分されていくのだ。
あまりにも辛い現実である。

それなのに、あの日街を襲った海は穏やかな波音を立てていた。
自然災害だからやりきれないのだろうか。
いや、そうではない。
大好きな海、生まれ育った海だからこそ、やりきれないのだと思う。

悲しみも悔しさも、怒りも憎しみすらもどこにもぶつけられないのだ。
被災に遭われた方々のやり場のない思いが、あの光景から伝わってくるようだった。

それでも、地元民にとっては生まれ育った場所なのである。
その辛さがお前にわかるかと、何度も自分に言い聞かせた。
私にはこの現状を目に焼き付けて胸に刻むことしかできない。
だから、とことんそのことに集中したのだ。


私が驚いたのは被災地の悲惨な現状だけではなかった。
特に強く印象に残ったことがある。

それは、被災地の人たちが笑顔でいたということである。
あの時の笑顔は、強烈に私の中に残っている。
それまでに私が見たどんな笑顔よりも強い笑顔だったからだ。

私は日常生活を笑顔で送ることを大切にしているのだが、それとはまったく違う状況なはずである。
考えられない、信じられない!というよりも、はっきりとした力強さが笑顔から伝わってくるのだ。

どこをどうやれば笑顔でいられるのだろうかと思ってしまう程だった。
震災時の恐怖も記憶もあるだろう。
心の傷も悲しみも癒えてはいないはずである。
私はすぐに理解できなかった。

しかし、それがなぜなのかをやっと理解することができた。
簡単ではなかったが、あの笑顔がどういうものなのか今ではよくわかる。

人々の「生きる強さ」そのもの

そのことだけが被災地の人たちを笑顔にしていたのだと思う。
どこの誰ということではなく、各地で力強い笑顔があった。
コンビニひとつ、ごはん屋さんひとつにしても、その笑顔は力強かった。

そうか、人々はすでに前を向いているんだ!

あのような現状の中で、まさかあんなにも輝いた笑顔が見れるなんて。
そんなことは思ってもみなかったから驚いてしまったのだ。
きっと、あの人たちは「仕事ですから」と言うだろう。
でも、そうではないと思う。
よくぞ笑顔で迎えてくれましたと言いたい。

いろんなことを、複雑な感情を抑えていたはずなのだ。
それなのに、けして無理な笑顔ではなかった。
地元を訪れてくれる一人一人に感謝していたのだろう。
しかし、笑顔と元気をもらったのは私の方である。

もし、一人でも被災地の人と話す機会があれば、こんな私ではあるが元気をあげたいと思って家を出た。
だけど、現地の悲惨な姿をみて言葉を失ってしまった自分がいる。
それでも気を取りなおして回っていたのだが、私は逆にあの笑顔に救われたのだ。

いま思い返してみても、本当に強くて素敵な笑顔だったと思う。
そのように明るく迎えていただいたことに感謝します。
元気をありがとうございました!


2020年、東日本大震災から9年が経った。
震災当時からみると、だいぶ復興は進んだと思う。
まだ道半ばかもしれないが、更なる被災地の復興を願っている。
そして、その姿を見たいと思う 笑

鉄道や海のみえる旅館・ホテル、三陸の魚介類に各地の絶景。
数多くの魅力がある東日本を盛り上げていってほしい!
簡単なことではないと思うが、東日本の人々にはそれだけの力強さがあるのは間違いない!
それはこの9年をみてもわかるでしょう 笑

私はなによりあの笑顔を忘れない。忘れるわけがない。
あの笑顔には生きる強さと希望があったのだから。
私はそのことを教えてもらった。

また、私たちは犠牲となった数多くの尊い命の分まで生きることが大切なのだと思う。
もし、苦しくなったり辛くなった時は、ベタではあるが空を見上げればいいと思う。

昔から人は亡くなったら星になると伝えられてきた。
大切な人が星となって見守ってくれていると思えば、少しでも心がやわらぐのではないだろうか。

上を向いて歩こうという名曲がある。
涙がこぼれないようにとは、そういったことでもあると私は思う。
だからこそ、人には上を向いて歩くことが必要なのだ。
それと、いつでも尊い笑顔を思い出せるように。

でも、私が思う以上に強い人ばかりなのだがw




〈チッチと出目金ぷっぷのひと言ふた言〉

今回は、私が東日本大震災の被災地から学んだことや、逆に元気をいただいたことを話しました。

あの状況下で見た笑顔は、私にとって何よりのサプライズであり、何よりのお土産となりました。

私は、あれほどまでに強さを感じる笑顔は見たことがありませんでした。
生きるんだという力強さと、希望の目をしていました。

私が見たその笑顔をどうしても伝えたいと思い、今回話をさせていただきました。
あの明るい素敵な笑顔はすべてをグッとこらえ、すでに先を見ていたのだと思います。

あらためて元気と笑顔のおもてなしに感謝しています。
また、強く素敵な人たちにお目にかかれたことは、私の自慢です!笑


それでは、また次のお話で。



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