製図器とかつぎ屋のアルバイトパート4

目的地は、高知県境の「Y」と言う地区である。下り立った停留所から足馬の悪い小石まじりの道を川まで下がり、大きな川にかかった橋を渡り、それから再び山坂を三十分ばかり上り詰めた二十戸ばかりの集落である。
 
大きな川と言えば石手川と重信川くらいしか知らず、山といえば、お城山か西山しか知らなかった私は、仁淀川の大きさや、山の深さには今更のように驚かされた。

 竺田さんに案内してもらった農家の家族は、それまでに私達の事を聞いていたのか、気持ちよく迎えてもらい、風呂を浴び久しぶりに「粥」から開放され固い歯応えのある食事をごちそうになった。
 
 ひもじさと、寒さと恋を比ぶれば
  恥ずかしながら ひもじさがさき

と言う言葉があるが、柳谷くんだりまで汗にまみれ、"縁者のひっぱり"と言う関係だけで頼って行った私達は、まさにこの世の餓鬼に見えたであろう。
 ていちょうなもてなしに気をよくし、食べに食べ、喰いに喰いして腹一杯になった私は、前夜からの疲れと、満腹感とでたちまちのうちに寝てしまった。
 
 翌朝すでに手配してくれたのか、竺田さんと私のリュックは大きくふくらんでおり、「大丈夫かなッ」と声をかけてくれる家の人々に別れを告げ、再び山を下りた。
 
十五貫の芋の粉を背負っていても、前の晩のもてなしに気をよくしている私は、別に苦も無く仁淀川沿いの国道まで下立った。
 
私達に気遣いして停留所までの道中を見送ってくれた老夫婦は「男の子は役に立ちますネ」と、竺田さんに言葉をかけながら、私の労を労ってくれた。
 高知からのバス便は乗客も少なく、到着した箱バスにも苦もなく乗車することができ、私達はお互いの健康と再開を約し、数時間後に迫っている大きな変事をしるよしもさなく、車中の人となった。

 国道とは名ばかりの道路で舗装はなく、乗り心地の悪い箱バスにゆられながらも、しだいに松山へ帰りつつあるという安心感が体にみなぎり、前日不思議と幻想めいた街並みに見えた久万の町に到着した。
 そこからは再び松山行のバスに乗り換えとなり、一時間余りの待ち合わせがある。乗客も待合室だけでは入りきれず、駅の構内やのき下等で涼をとっている。
 
 竺田さんは、やがて乗らなければならないバスの順番待ち待ちのため、待合室入口北側の窓下にリュックを置き、腰掛けがわりにか座り、私は待合室入口南側のポストの横にリュックを下ろしその上に腰をかける。
 
 「何もないが、お土産にッ」
と、柳谷でもらったトウキビ豆の煎ったものを取り出し、三粒、四粒とくちに頬張り堅い豆の柔らかな甘味を味わいながら茫然と町並みを眺めていた。………と突然、
 「ウソ言うなッ、小麦粉じゃろうがッ!」
   「いいえッ、芋の粉です」
    「本当のことを言ってみろッ、小麦粉じゃろうが……アッ他の者は動くなッ。じっとしとれ」
と、語気の激しいやりとりと、怒号の声がすぐ間近に聞こえた。
 私は瞬間的に竺田さんの方を振り向いた。
そこには、リュックの前で頭を下げ、懸命に説明し、理解してもらうべく努力をしている竺田さんの姿と、その前に立ちはだかっているのは、当時の「経済」と呼ばれていたお巡りさんであることは、戦後と言う汚い荒波に洗われている時代であっただけに、坊主頭の私にも十分察しはついた。
 
 一番人目につきやすい国鉄バス、久万駅舎の入口に腰を下ろしていた竺田さんは、しきりに"芋の粉"について説明しリュックの口を開け中身を確認してもらうべく、堅く結んだ紐を解きかけたそのときであった。
 
 駅舎、車庫等のそこかしこで、バスの順番を待ち構えていた人達のうち、都合の悪い人達が四散し始めたのである。
 お巡りさんは一人しかいない。逃げかけている連中を見ては、そのまま放任することも出来ず、一人で竺田さんにたいする詰問と他の者に対する制止に追われているのである。
 そのうち「芋の粉と言うのを疑われるのなら先に警察へ行きます。警察はどちらですかッ!」
「真っ直ぐ行ったらわかる。先に行け」
 と言ったお巡りさんは、竺田さんからわずか四メートルくらいしか離れていない坊主頭の私のリュックには気がつかなかったのか、私の方は構わず、逃げ出そうとしている大きな男の肩に手をかけ、その場に制止していた。
 
 本当に降ってわいたような騒ぎに巻き込まれた私は、恐ろしさのために一瞬でもとまどったが、「警察はどちらですか?」と言って先に歩き出した竺田さんの目に動きますが尋常ではなく、"何かあるな"ということはすぐに察しがついた。と同時に私も警察沙汰になるのは恐ろしく、その場は逃げるのが、得策と、ポストの向こう側から手を差し出して荷物を引き寄せ、駅舎の裏側の建物の隅に隠してしまった。
 
 小麦粉や芋の粉が経済的な違反となるとかならぬとかは別として「警察」と言う言葉自体の恐ろしさと、先に立ち去った竺田さんの行方が心配になり、恐怖心と戸惑いから途方にくれていたが気を取りなおし、リュックはそのままにして駅舎の表に出てみた。
 
そこには、さきほどのお巡りさんが自転車をおしながらあ、二、三人の男の後方につき、それぞれをうながしながら歩いている後姿があった。それを見た私は、見知らぬ町並みの軒下を右に寄り、左側にかわしながら人通りの中に竺田さんの姿を探し求めた。
 駅から二百メートルくらい松山寄りのところまで行ったとき、私を呼ぶ小声が聞こえた。立ち止まり声の方にふりかえると、ある糸屋さんの店の奥から竺田さんが手招きしている。 
 
急いで店の中に入ると、その家の奥さんと思われる人が、「あんたら学生さんじゃのに、エライことになったなぁ…それにあんたの荷物はナ、駅の裏…そらッ早う取りに行かんといかんがッ。まあここで待っといでなッ。松山行きのバスが出るようになったら見に行ってみることじゃなッ。うちはかまわんぞナ、ここで休んでおっても…」

と心配してくれている。竺田さんのにもつは、糸屋さんの店から奥の井戸端へ通じる土間におかれている。かと言ってもいつまでも迷惑をかけることも出来ず、荷物だけは置かしてもらい、2度、三度発車時間の一時間前に駅前まで出かけてみたが、結果的には全てのバスの発車直前に、見覚えのあるお巡りさんが警戒しており、最終のバスにも乗車することができなかった。 
 坊主頭の私にとって一番困ったことは、その翌日が二学期の始業式の日であり、ついに学期始めたは無断欠席の幕開けとなったことである。
        つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?