製図器とかつぎ屋のアルバイトパート5

荷物を置かしてもらった糸屋まで引き返し、

事の成り行きを説明し、その晩の一夜をあか

す宿屋の事を尋ねた。

 「だいぶん旅館もあるがほとんど店を閉めており、ここから一町ほど松山寄りのところに昔からの暖簾をもつ旅館があるが、そこなら泊めてくれる」

と、教えてくれた。子供心にもその糸屋さん

には、感謝の気持ちを精一杯の表現であらわ

し、久万の町へ飛び出した。
 
 最終のバスが出てしまった町筋は、一段と

淋しくなり、人目をさけるように言われるま

ま宿屋を訪ねた。

宿屋では学生の私達を見て、不審そうにして

いたが、色々話をするうちに、"食事はない

が素泊まりでよければとめられる。代金のも

ちあわせがなければ芋の粉を相場で引き取る"

との好意的な条件でなんとか宿屋に泊まるこ

とが出来る事になった。通された部屋は二階

で表の道路に面した部屋であった。各部屋と

の境の襖や障子はほとんど取り払われており

それぞれの部屋に裸電球だけは灯っていた。

先客が、四、五人泊まっていたが、いずれも

廊下の角隅や出窓の腰掛けを利用し、七輪の

上で粥や雑炊を炊いている。

 私と竺田さんの二人は帰りのバス賃しか持

ちあわせがないためどうすることも出来ず、

無理を承知で宿屋から七輪と鍋を借り受け、

炭代も出さずに火をもらいうけ、リュックの

芋の粉でカンコロ餅をつくり、どうにか空腹

を満たすことができた。もちろん風呂はなく

七輪の火の始末をしたあとは寝るだけである

押し入れから出された布団に体を横たえた。

久万高原と呼ばれているだけに夜は涼しく昼

間の疲れと緊張から間も無く深い眠りに入っ

ていた。

別に蚊の羽音がしたわけでもないのに、蚊に

刺された以上のひどい「かゆみ」に目を醒ま

された。竺田さんも隣室の泊まり客も目を醒

まし体をかきながら寝床を見ている。誰かが

「これは南京ぞ」という声に、初めて体験す

る虫を見るためその客の手もとを見る。淡い

赤茶色で平たい体型をした小さな虫の姿を知

り、自分の寝床の枕の下からそれと同じもの

を捕らえて潰した。非衛生的な生活が続いて

いる戦後のことであったため、今では全く見

られなくなったノミ、シラミの類は知ってい

たが、南京虫というものの襲撃にあったのは

生まれて初めての経験であり、刺された肌に

は二つのあとがつき、なかなか消えないこと

も後でわかった。

 夜明けとともに、竺田さんは松山行のバス

を見に行ったが前日と同様に乗車することも

出来ず、二時間余り後の二番バスも同様で、

私達は重大な決意をしなければならない窮地

に追い込まれていた。それは久万から松山

までの十里の道を歩かなければならないこと

である。宿を出る時はすでに陽は高く昇って

おり、自分達の食い料と宿泊大丈夫代わりに

宿屋に引き取ってもらった分量だけは軽くは

なったが、それでもわずかばかりの量のこと

重量にすれば大差なく、その重いリュックを

担いでの帰路である。町はずれの薄暗い神社

のような森の横にある警察署前を通り一路松

山に向かっての長い行軍が始まった。

比較的女性的な山間のなだらかな斜面を、ゆ

るやからのぼり道が続いているいる。夏の道

は、久万の町からとおざかるにつれて埃がひ

どくなりリュックの重さが、両肩に食い込む

頭上からの日射しは強くて照りつける。高原

とは言え日中は平地と何も変わりはない。

時折ぼうぼうと砂埃を上げ、木材を満載した

トラックが松山方面に去って行く。私達は後

方からトラックが来ると、何とか便乗してさ

せてもらうべく両手を上げたり、手を振った

り、頭をさげてもみたり色々と手をかえ品を

かえ、自動車を停めようと努力はしてみても

まったく無視され、徐行すらもしてくれない

い。二度や三度で乗せてくれることもなかろ

うが、そのうち乗せてくれるトラックがある

かも知れないというわずかな期待感から、

トラックの音がするたびに、手を振ってみた

が車には走り去られてしまう。何かトラック

をみおくるためにいるような錯覚にかられる

その度に一段と失望感が増し肩にかかってく

る。荷の重みも増してくる。

 日焼けのために頭の上から頬被りをしてい

るが、額やかおから流れ出る汗を吹き、口許

でタオルの端を噛み止めているものの、暑さ

と喉の渇きを我慢するため、知らず知らず口

に力が入り、タオルの端は噛みきれてしまった。"一杯の水が飲みたい"車に乗りたい".水が、車がッ"ということのみを考えていると

しだいに情けなくなり、涙と汗が一緒になり

誇りをかぶった二人の顔は見られたものでは

なかった。………

道路沿いには家もなく、上り坂とまでは言え

ないがダラダラ坂が何処までも続いており、

藤の棚とか高殿宮等という美しい地名のバス

停を横目でにらみ、もくもくと前に足を出す

だけである。道路端に植林地があり、木陰が

あるところ等では、立ったまま小休止し、再

びきをとりなおしては歩き続けた。

 道路の熱りで、頬をつたいながれる汗が白

く乾き、塩がふいたような状態になる。二人

は無言で、ただひたすら歩き続け、宿屋を出

てから一里あまりも進んだであろうか、前方

の道路沿いに数軒の家が点在している集落

が見えてきた。"やっと水にありつける"と思

うとしだいに足早になり、息咳きってその集

落の一番道路に接している一軒の家の前にた

どりつく。その家の入り口には、"重い荷物

をおろしなさいよ"と言わんばかりに直系が

二尺余り高さが四尺ほどの立派な切り株がニ

つ並んで置かれてある。私と竺田さんは「や

れやれ」という安堵の気持ちが先に立ち、共

に背中の方からそこに置かれてある切り株に

近づき人の手やお互いが助け合うわけもなく

楽々と重い荷物を下ろし両肩にをさすりなが

らその家の土間に入ろうとした。

薄暗い土間は見るからに冷たそうに黒く光

っている。さぞ家の中の水も冷たいであろう

等と考えながら水を飲ませて貰うべく声をか

けようと大きな敷居を跨ぎながらフト柱に掛

けられている木札に目をむける。

その木札には、久万警察署明神村巡査駐在所

と書かれてあるではないかッ。

竺田さんと顔を見合わす、袖を引き合い、数

歩離れた切り株まで引き返しリュックを背負

い、その建物から急いで離れた。そのときの

格好は、人からみれば、てきれつなものであ

ったに違いない。その後はただ歩きに歩いた

お互いに口をきくゆとりもなく、目を赤くし

黙々と歩き続けた。いくら急いで歩いても自

分の足が遅く距離が伸びない感じである……

そのうちに落ち着きを取り戻しはじめた頃に

なると、前にも増して渇きと暑さの責め苦は

気息奄々の体といったところである。勿論

後方から走ってくるトラックには、手を挙げ

なんとか便乗させてもらうべく努力はしてい

るが、無駄の2文字の連続であった。はって

くる山々の緑は深く、その深緑のもとで一息

入れたいと思いながらも歩き続ける。その後

も二、三カ所の停留所があったように記憶し

ているが、これからのバス停で乗車すること

はよほどのことがない限り不可能である。

下駄履きでの長歩きは、親指と第一趾の内側

に豆をつくり、遅遅として進まない。放浪の

画家として有名な山下清のスタイルをそのま


ま地でゆく格好である。久万を出て二時間く

らい歩いたであろうか、前方の道路左側に一

軒の「うどん屋」ふつうの店屋が見えはじめた。

そこは「六部堂」というバス停になっており

その店も、店内にはこれといった商品は置か

れてなく殺風景なものであった。水を飲ませ

てもらい渇きを癒すと同時に、松山へ帰る方

法について尋ねてはみたが、バスについての

望みはまったくないと言う。そのような話の

なかでもやはり私達を不審そうに見られるの

で、ここでもまた今までの経緯をはなすと、

松山へは旧三坂街道を馬で越えるのが一番

近くて早い方々であるが、私達二人が背負っ

ている総てのものを出さなければならないく

らい費用がかかるとのことであった。

困った顔をした私達の姿に、その人は同情し

たのか、「あんたらもう一度明神まで引き返

す気があるんじゃったら、トラックに乗せて

くれる人を紹介してあげる。その人は闇屋の

kさんと言うてな、知らない人はないし、直

ぐに家もわかるから、その人に頼んでみなさ

いや」と教えてくれた。

私達二人は互いに顔を見合わせた。嫌な思い

をした明神というところまでもう一度引き返

すことについて、お互いに躊躇したが結果と

しては、引き返す事にし、迷惑をかけついで

に荷物はその家に置かせてもらい、再び二人

は、明神という地区まで、引き返した。

引き返す道は、それまでとは全てが逆になり

ゆっくりとした坂を下りおりる精神的な安ら

ぎと、荷物を背負っていない肉体的苦痛から

の開放感から足取りは自然軽かった。

「闇屋のKさん」の家は、二、三人の人に尋

ねただけで、直ぐにわかり、街道からでもか

いまみることができる葛折りの山道を、五十

メートル余り登った所のわずかな平地に建っている。

雑木林を背にし、見かけは小さな荒壁造りの

家ではあるが、日当たりの良い場所である。

私達は、その家の戸口立ち、どのように相手

を確認してすればよいのか迷ったが「今日は

闇屋のKさんの方はこちらですかっ?」
 
と教えてもらったままの言葉をそのままズバ

リで案内を乞ってみた。「オー」濁声で、

うだるげな返事がして、表の腰高障子を開け

て出てきたのは年のころ四十くらいとみられ

る男盛り、どちらかと言えばじい様臭い男

である。開けられた障子戸の奥には、なんと

新品の家具調度がきらびやかに並んでおり、

全てを焼失した私達は、本当に驚きどおしの

状態であった。坊主あたまの私達から昨夜の

出来事を一部始終聞いていたkさんは、いと

も簡単に"よしわかった"と腰をあげ、「荷物

は何処に置いとるんぞ」と尋ね、六部堂の

停留所の店に預かってもらっていることを

説明すると、「あそこのお婆が、わしのこと

を闇屋のKさんと言うたのか」と笑いながら

暑い夏の道を私達の為にわざわざ停留所まで

足を運んでくれた。「闇屋のkさんが来たゾ

大きな声で、六部堂の店のおかみさんに声を

かけしばらく話をしていたが、やがて表に出

てトラックを待ってくれていた。下の方から

走って来るトラックを見ると、そのまま道端

から片手を上げ、今で言うVサインを送ると

そのトラックはピタリと停まった。

停めたトラックに「どこでもかまわん、二人

乗せてやってくれんかッ……」しばらく話し

ていたが、「坊主早くしろ、何もないんですが芋の粉を少しでも  と、ささやかな謝礼

をしようとしたが、「お前らのものが何でと

れるんぞッ。心配せずに松山へ帰れ。お前ら

のものはないでもないが、心配じゃったら森

松の橋の手前でクルマから降ろしてもらうん

じゃなッ」大きな腕で、私たちを押し上げト

ラックの後部の木材の隙間に乗せてくれた。

「ありがとう…」走り出したトラックから、

Kさんや六部堂の店の人達に手を振っていた

が、埃にまみれたちまちのうちに見えなくな

ってしまった。トラックに揺られ、丸二日間

のアルバイトを回想するゆとりが出来たが、

それは、汗と涙と苦しみの三重奏であり、悲

喜こもごもの大剣であり、温かみのある人達

との出会いでもあった。前後の窮乏に悩まさ

れていたとはいえ、少年の私には大きな試練

の二日であった。車の振動も何かの調律を

伴っているような錯覚を覚えさせる。

夏でも冷えびえとした木々の霊気を漂わせる

三坂峠を一路松山に向かった。…山道を久万

に向かって歩き続けるお遍路の後ろ姿を見送

りながら……終
昭和五十九年八月号   かがりびより                       

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