【短め短編小説】Life Goes On #シロクマ文芸部 #消えた鍵
「消えた」鍵は今もあの場所にあるのだろうか?――日本を発ってから、この疑問は、私の頭を片時も離れることはなかった。
5年ぶりに訪れたフィレンツェは、街そのものが1つの芸術品であるかのように相変わらず美しい。オレンジ色の屋根が連なる街並み、石畳、大聖堂、教会、宮殿、鐘楼、塔、橋その他の建築物が訪れる者を古の昔へと誘う。もしヨーロッパで何処に住みたいかと尋ねられたら、私は迷いなくフィレンツェと答えるだろう。
でも今回、ルネサンスが今に息づくこの街を私が訪れたのは、住むためでも観光のためでもない。5年前に「消えた」鍵を回収するためだ。もっとも「消えた」というのは、私が咄嗟に崇に吐いた嘘だった。悲しい、悲しい嘘だった。
大学時代から付き合っていた崇と私は婚約した。そして、結婚を控え、私たちは思い切って家を買うことに決めた。何十という物件を見て回り、ついに気に入った家を見つけた。その3階建ての家は海を見下ろす高台に建っていた。モダンなデザインの白い壁を持つ家――。1階はガレージで、屋根裏部屋もあった。
私たちは夢の家を見つけたと言って大喜びした。2階は、独立して建築事務所を開く予定だった崇の仕事場兼オフィス、3階は2人の住居、そして、身長160センチの私がぎりぎり立つことのできる屋根裏部屋は、絵を描くことが好きな私のアトリエに――。そんな計画に、私の心は躍った。
私は幸せだった。グラフィックデザインの仕事も楽しかったし、会社の上司や同僚にも恵まれていた。締め切りが迫ると、月に何度か夜中過ぎまで仕事をしなければならない日もあったが、そんなに苦にはならなかった。
会社の友達である梨花や桜子には、崇を紹介し、崇の同僚の建築士の男の子達と一緒に何度も飲んだり出掛けたりして、いい遊び仲間になっていた。皆、崇と私が婚約したときも、家を買ったときも祝ってくれた。
崇が図面を引き、私達は買った家を自分たちの望むように改築した。内装もすっかり改装した。クローゼットや食器棚など、家具はできる限り括り付けにした。住居部分と私のアトリエの壁紙や天井、トイレや浴室は、森が好きな私の希望で思い切ってすべてライトグリーンで統一し、床はパイン材のフローリングにした。大きな窓には、木の葉模様のカーテンを掛けた。
3階に生活のための家具や家電を揃えた。仕事の合間に、2人で待ち合わせてダイニングテーブル、2人でゆったり座れるリクライニング式の大きな白いソファ、50インチのテレビ、ベッドを買った。食器、箸、カトラリーも揃えた。リネン類、掃除機や洗濯乾燥機を揃えると、一緒に暮らすことが一気に現実味を帯びた。
私たちは、時々、まるですでに結婚したかのように新しい家で一夜を過ごした。
「ねえ、崇、こうして泊まってみると、足りない物、あったらすぐに分かるよね」
「確かに!」
そんなことを言いながら、私たちは夫婦ごっこを楽しんだ。
でも、すべての準備が整い、結婚式を1ヶ月後に控えたあの日、なんの予告もなく、あまりにも突然に何もかもが終わりを告げた。
あの日の夜、私は崇と2人の家で会う約束はしていなかった。でも私は、無性に行きたくなった。崇と暮らすために揃えた物たちに囲まれ、幸せな空想に浸りたくなったのだ。元々、私は決して結婚願望が強かったわけではなかった。その私がそんな気持ちになるなんて……。その頃の私は、くすぐったいような幸福感に包まれていた。
駅から2人の家までの20分の道のりを歩く私の顔は、優しい微笑みすら湛えていたかも知れない。その私の顔は、家の前に辿り着くと、きっと笑みで満たされたのだと思う。なぜなら、ガレージには、崇のブルーのミニクーパーが駐まっていたからだ。
でも家の門を開けようとしたそのとき、私は、別の車が2人の家のすぐそばに路駐されていることに気づいた。それは、赤いアルファロメオだった。暗闇で街頭に照らされ、赤いボディは紫がかった反射光を放っていた。
「梨花?」
会社で一番仲の良かった梨花の家はいくつも不動産を所有する資産家だった。しかし、梨花は明るく気さくで、同期入社の私たちはすぐに仲良くなった。梨花にはなんでも話せた。そして、梨花は赤いアルファロメオを持っていた。
事情がよく理解できなかった。いや、事情を理解したくなかったのだろう。嫌な想像が否応なしに私の頭に入り込んできた。私は嫌な想像を必死に追い出そうとした。何もちゃんと考えられなかった。私はガチャンと大きな音を立てて門を開け、足早に家に入った。
なぜ、大きな音を立てて門を開けたのか? 私が来たことに気づいてほしかったからだ。崇と梨花が私が知りたくないことをしているなら、私が行く前にそれをやめてほしかったからだ。何事もなかったように私を騙してほしいと思ったからだ。
そう思いながらも、私の足は、崇と梨花にそんな小細工をする猶予を与えないスピードで私を運んだ。真っ暗で人気のない2階を一瞥しながら私はさらに階段を登った。ダイニングにもリビングのソファにも2人の姿はなかった。そして私は寝室の扉を開けた。崇と私が愛し合うために設えた私たちの寝室の扉を――。
そっと開けたつもりの扉は、周りの空気を激しく乱しながら音を立てて開いた。部屋の中は暗く、枕元に置かれたティファニーランプのシェードがステンドグラスを通して天井や壁、そしてベッドの上の崇と梨花を赤や青や緑に染めていた。2人は私を見ると慌てて体を起こした。梨花はシーツを体に巻き、崇は真っ裸でベッドを飛び降りた。
「葵! 違うんだ。俺たちはそんな関係じゃない」
崇はアメリカのテレビドラマのような台詞を口にした。
私はそんな崇を馬鹿みたいにただ呆然と見つめた。
気づくと、梨花は身支度を整え、私には理解できない言葉を残して部屋を出ていった。
「ごめん、葵。ほんと、なんでもないの。じゃ、明日、会社でね。崇君も、ごめん、こんなことになっちゃって……」
私も部屋から……家から、すぐにでも逃げ出したかった。でもできなかった。私はへなへなとその場に座り込んでいた。そして私の横には、グレーのスエットの上下を着て、刑の執行を待つ死刑囚のような顔をした崇が座っていた。私の目からは涙が溢れた。崇の口がぱくぱくと動いていた。でも私には何も聞こえなかった。この言葉以外は……。
「な、葵、だから俺のこと、信じてくれ」
信じることなんてできない――。迷う余地はなかった。迷ってはいけないと思った。一番幸せなはずのときに、崇は私を裏切ったのだ。私が心を込めて崇と暮らすために準備を整えていた2人の家を汚したのだ。崇は私の心を踏みにじったのだ。世の中には許していいこととそうでないことがある。これは、後者だ。許してはいけない。私はそう自分に言い聞かせた。
私は涙を拭い、力なく立ち上がった。体中にひどい倦怠感を感じた。少しでも油断すれば、何もかも許して元の幸せな結婚間近の女に戻ってしまいそうだった。その方がずっと楽で、何もかも丸く収まったかもしれない。私は歯を食いしばるように、崇と私の2人の家を出た。どこをどう歩いたのかよく分からなかった。私は次の日、会社を休んだ。そしてまたその次の日も――。
1週間休み、心を鬼にして出社した。梨花はいなかった。トイレの鏡に映る私は痛々しかった。冴えない顔色にやつれた顔。目には悲しみが満ちていた。恋人に裏切られるなんて大したことじゃない――。世界にはもっと大きな悲劇がたくさんある。頭では分かっても心がついてこなかった。仕事が救いだった。
結婚式を取りやめ、招待客たちにそのことを手紙で伝えた。会社では、上司も同僚も、壊れ物でも扱うように私に優しかった。梨花は会社に二度と姿を見せなかった。会社に不満はなかったし、結婚がだめになったことを恥ずかしいとも、情けないとも思わなかった。でも、私は人生を新しくやり直したい衝動に駆られた。あの夜の2ヶ月後、私は退職届を出した。
同じ頃、家の名義変更の手続きが必要だから会いたいと崇から連絡があった。共同名義から、崇の単独名義に変更する必要があるのは私も分かっていた。
待ち合わせのカフェに着くと、崇の前にはコーヒーが置かれていた。
「来てくれてありがとう。葵、本当に済まなかった」
崇は私への謝罪を繰り返した。ウエイトレスが注文を取りに来た。
「すぐ出るのでお水だけで」
私がそう言うと、崇は気まずそうに書類の入った封筒をブリーフケースから取り出した。
「できるだけ……でいいんだけど、早めにもらえるかな。印鑑証明とか委任状とか、他に必要な書類のリストも入ってる。悪いけど、よろしくお願いします」
私は封筒を受け取ると、立ち上がろうとした。すると崇が言った。
「あ、ごめん、葵、鍵……家の鍵……」
崇の言葉に、私はにわかに激しい怒りを感じた。そして、バッグの中のキーチェーンに付いた2人の家の鍵を心の中で思い描きながら、私は言った。
「鍵? あ、ごめん、なくした。あのあと、気分転換に自分の部屋の模様替えしてるうちに消えちゃった。悪いけど、鍵、取り替えて」
嘘だった。私は鍵を返したくなかった。あの日以降、一度も梨花が会社に姿を現さずに会社を辞めたこともあった。崇と梨花が結婚して、私が準備したあの空間で幸せに暮らすのではないか――。私は、心の何処かでそんなことを疑っていた。だから、崇と梨花が幸せになる邪魔をしたかった。そのために思わず吐いた悲しい嘘だった。
「そっか、消えちゃったか……分かった」
私は席を立ち、何も言わず、振り返ることもなく店を出た。
間もなく私は、思い立ったようにイタリアに旅行に出掛けた。崇と新婚旅行で行くはずだったフィレンツェに――。
フィレンツェは学生時代に一度、訪れたことがあった。芸術品のような街に目眩を感じるほどの感動を覚えた。フィレンツェでは、人も芸術品のようにお洒落だった。安宿に滞在した2週間の間、毎日のように教会や美術館を訪れた。アカデミア美術館のダビデ像が私の一番のお気に入りとなった。私は、その2週間の間に、何度もアカデミアに足を運び、長い間ダビデを眺めた。
5年前に傷心のままフィレンツェを訪れた私は、再びダビデに会いに行った。そしてずっと彼を眺めていた。疲れると、像の背後にある木製のベンチに座った。ベンチに座ってダビデのお尻を見ていると、突然に、すべてが滑稽に思われた。崇との恋も、崇の裏切りも、うきうきと2人の住処を整えていた私も、フィレンツェで彫刻のお尻を眺めている私も――。
何を思ったのか、私はバッグからキーチェーンを取り出すと、海を見下ろす2人の家の鍵を外した。そして、それを木製のベンチの背面と座面の隙間に滑り込ませた。鍵は隙間にピッタリとはまった。緩い曲線を描く厚さ2ミリほどの側面が、〈ダビデのトリブーナ〉と名付けられた展示スペースの照明を受け密やかに輝いた。
私の頬を熱いものが伝って落ちた。私はベンチから立ち上がり、涙を流す私を怪訝そうに見る観光客たちの間を抜けて、まっすぐに出口に向かった。私は帰国し、私の人生の次の章を書き始めた。
その後、桜子から電話があった。梨花が亡くなったと――。
「私ね、お葬式は知らなかったから行かなかったけど、お宅にお焼香に行ったんだよ。でね、びっくり! 梨花の家、3LDKのマンションだった。親と同居。親がいくつもマンション持ってるとか、クルーザーがあるとか、全部嘘だったんだよ。アルファロメオは本当に持ってたらしいけど……。お母さん、はっきり言わなかったけど、自殺っぽかったよ」
私は、謂れのない罪悪感に駆られた。
〈何? 私のせい? 崇とのことが私にバレたから? 恋人にも友達にも裏切られたのは私なのに、私が梨花の幸せを邪魔してたみたいじゃない!〉
桜子と話しながら、私は泣いていた。梨花の死を悼んでなのか、嘘を吐いてまで華やかな生活を演出していた梨花を可愛そうだと思ったのか、嘘を吐かれていたことが悲しかったのか、崇と自分の関係を梨花が壊したことに改めて憤りを感じたのか……。私には分からなかった。
でも、1つだけ分かったことがあった。それは、何があろうと、私は生きていくということだった。崇の裏切りを知って、ほんの一瞬、死んでしまいたいと、死という選択肢が私の脳裏をよぎった。
でも、ほぼ同時に、死んでしまってもいいと思うなら、どんなひどい人生でも構わないから生きてみようと思った。何処まで落ちるのか自分の目で確かめてやろうと思った。それに、人はどうせいずれは死ぬ。わざわざ自分がこの世界に別れを告げなくても、この世界が私に別れを告げるまで居座ってやろうと思った。
そして私は生き続けた。
新しい仕事も決まった。幸い、グラフィックデザインの仕事だ。去年は恋人もできた。4つ歳下の翔太には、崇とのことをすべて話した。翔太は同情することなく、ただ淡々とその事実を受け入れた。心の傷が完全に癒えない私とただ一緒にいてくれた。私は付き合い始めた3か月後、翔太のマンションに引っ越した。
そして、今年の正月、翔太は私に言った。
「1月1日、切りがいいから言っとく。ちょっと早いかも知れないけど、俺、葵と結婚したい」
翔太のプロポーズを聞いたとき、私の頭に真っ先に浮かんだのは、なぜかフィレンツェに置いてきた崇と私の家の鍵のことだった。「消えた」と崇に嘘を吐いた鍵――。
私は4日間の有給を取り、今こうして再びダビデ像の前に立っている。私は、ダビデの後ろ側に回り込み、木製のベンチの鍵があるはずの場所を探した。
「あっ!」
私は思わず小さく叫んだ。
鍵は、5年前より少しだけ奥に入ってしまったように見えたが、まだそこにあった。鍵をここに滑り込ませたとき、私の心は荒んでいた。潤いも温かさもすっかり消え失せていた。
でも今、こうして鍵を見る私はどうだろう? あんなに私を傷つけた出来事、そしてその象徴であるこの鍵を懐かしくさえ思う。私の脳裏に浮かぶイメージは、優しい靄に包まれた幸せな思い出たちだった。私は崇のことを乗り越えたのだと分かった。
アカデミアの係員に頼み、ベンチの隙間にはまり込んだ鍵を取り出してもらった。胸に〈Riccardo〉と書かれた名札を付けた20代前半と思しき男の子は、笑顔で私に鍵をくれた。私も笑顔で受け取った。
ドゥオモの近くのホテルに戻ると、私は今も〈2人の家〉に1人で住む崇宛てに鍵を送った。短いメッセージを添えた。
「崇、幸せになってね。私も幸せになります。葵」
成田に着くと、到着ロビーで翔太が待っていた。私を見つけ、笑顔になった。上げた右手を私に向かって大きく振った。私は走り出したい衝動を抑え、スーツケースのハンドルをしっかり握った。そして、翔太に向かって大きく1歩踏み出した。(終わり)
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