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与えることに、理由なんていらない

「与えることに、理由なんていらない」
そう教えてくれた人たちの話。

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逝かないでほしかった。
She is no more. という信じがたいメッセージが、携帯に届いた。
彼女は突然、逝ってしまったのだ。
遺体は焼かれて灰になり、ガンジス河に流された。

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彼女は、フェミニストだった。男尊女卑のインド社会の中で、気高く、賢く、自由で、屈せず、主張し、創造的で、ショートカットで、ショートパンツを履き、浅黒い肩を出し、朝まで遊び、気持ちよく踊り、ジョークを言い、お土産のペンを渡すとピンクの方が夫で黒い方が自分のだと言って聞かなかった。

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時は2013年に遡る。
総勢約100名で行われた3泊4日の多国籍キャンプで、私はあるインド人に出会った。私の拙い英会話に根気強く付き合い行動を共にしてくれた彼のおかげで、今でもインド訛りの英語を聞くと心に安らぎを感じる身体になった。
彼との写真は見返すとどれも自分でも見惚れるほどの笑顔だ。
最終日、熱い抱擁。再会を誓った。

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その2年後。

彼から「婚約をした」との嬉しい報告が来た。

「インドの結婚式に出席してみない?」

飛び上がるほど光栄でエキサイティングな誘いを受け、二つ返事でインド行きを決定。
数ヶ月後、修士論文を提出したその日に旅立った。

なんとか現地にたどり着き、紹介された案内人に前夜祭の会場へ連れていかれると、唯一の友人である彼はまだいなかった。
見渡すと、ハッとするほどの美しい人が目に入った。目を見張り、胸打たれるほどの輝きで存在していた。
そう、彼女がフィアンセだった。
私に気付くと走り寄り、挨拶のハグと頬のキスで迎えてくれた。

初対面の挨拶を交わした直後、彼女は私の手を引き「一緒に踊ろう」と言った。
私は踊り方を知らないからできないと慌てて断った。
それでも「大丈夫だから来て」と、多くの人が見守るステージへ、半ば強引に連れて行かれた。
私は見よう見まねで彼女の動きを模倣した。心臓がバクバクしていた。
目を合わせると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
この場を共有する仲間として心から歓迎してくれているんだと感じ、心が震えた。

まぎれもなく、命が輝いた、かけがえのない時間だった。

その後、彼女の友達も家族も、みんな私を見つけて声をかけてくれた。愛の言葉をかけてくれた。
外国人がこの場にいるなんて、とみんな興味津々。

「どこから来たの?」
「新婦とはどういう関係?」
「ダンスのステップを教えてあげる。」
「一緒に写真を撮ろうよ!」
「こっちへ来て、仲間に入って!」

その場には新婦とその家族と友人しかいなかった。
新郎に招かれたはずが、新郎とその家族や友人はみんな別の町に滞在していて、最後の最後までほとんど登場しない。
それから三日間の滞在中、私は完全に初対面である新婦の家族や友達と、常に行動を共にすることになった。

この三日間ほど、人の真のあたたかさに触れた経験はない。

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三日目、彼女の家族の元を去る日。
とめどなく涙が溢れ続けた。
別れを惜しむ涙だと思われ励まされたが、そういう涙ではなかった。
突然現れた知らない外国人なのにも関わらず、身内だけの集まりでも家族同然に居させてもらい、一人一人にどれほど良くしてもらったことか。与えられてばかりだった。その一つ一つを思い返すだけで、なぜか溢れてしまう涙だった。

相手がどこの誰であろうと、目の前にいる人に、親切にすること。与えること。関心をもち、関わりを持つこと。

彼らにとってそれは当たり前のことのようだった。それがあたたかくて、嬉しくて、悔しくて、切なくて、恥ずかしくて、ありがたくて、愛おしくて、涙が止まらなかったのだ。

重大な経験だった。

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結婚式から2年後。

私は2人が住むインドのある都市を訪れた。
目的地は別だったが、そこが経由地であるため行き帰りに1泊ずつ泊まらせてもらった。
お土産のペンを渡すと、2人で好きな色の取り合いになったため、自分のをあげた。
結婚式の時の写真をアルバムにしたプレゼントはとても喜んでくれた。

家ではビールを飲みながら、インドの文化や教育について教えてくれた。
昼間は買い物をして、インドのストリートフードや珈琲をご馳走になった。日本に買って帰るお土産まで全て払ってくれようとした。
相変わらず、与えてくれる人たちだった。
絶対に日本にも来てくれと伝えた。全力でもてなそうと心に誓った。

別れ際、「次来る時はついでじゃなくて、計画の段階から連絡すること。行きたいところどこへでも連れていくから!」と叱られた。
今度は北の方にある山岳地帯に行ってみたいと伝えたら、よくハイキングに行くから一緒に行こうねと言ってくれた。
「そうしよう、次は必ず前もって連絡する。」
固く約束をして別れた。

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それから1年後。2018年12月17日。

She is no more. という信じがたいメッセージが、携帯に届いた。

彼女は突然、逝ってしまったのだ。

遺体は焼かれて灰になり、ガンジス河に流された。

ーーー

彼女の生き様は素晴らしかった。
驚くほど美しく、自立し、聡明で、洞察に富み、ユーモラスで、センスに溢れ、希望に満ちていた。

逝かないでほしかった。

私に必要なのは、自分が出会った生きている彼女をできる限り思い出し、言語化し、分かち合うことだ。

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目の前の人に親切にするのに、理由なんていらない。
相手がどこの誰であろうと、目の前にいる人に、親切にすること。与えること。関心をもち、関わりを持つこと。

彼女が、彼女の家族と友人が、体現してくれたこの大切な教えを、
一生、心に刻んで生きていきたいと思う。人生を通して伝えていきたいと思う。



<追記>
「異国でハッとさせられた重大な経験」というつながりで、もうひとつ思い出したので書きました。


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