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そこに自由はあるのか④

遺伝子のたくらみ
 
考えているのは誰かって? そんなの自分に決まっているじゃないかと言われそうだが、精神はどこから生まれるかとの問いを追っていって、脳が命令しているのだから、脳では?に行きつき、脳も結局は物質というオチがついてしまった。
 
話は変わるが、私の仕事は、主にバイオ技術の翻訳である。私は毎日仕事しながら、身体の巧妙な仕組みに日々驚かされている。ちなみに、私は純然たる文系出身、バイオは勿論、生物の専門知識もない、その分野では、門外漢である。でもだからこそ、生命の不思議にいちいち驚嘆の声をあげているのかもしれない。
 
免疫細胞に面白い名前が付いたものがある。ナチュラルキラー細胞(natural killer cell)というのだが、ナチュラルキラーって日本語に訳すと「生来の殺し屋」ではないか? まあ、実際はカタカナに直すだけですけどね。この殺し屋が、体内を常時パトロールして、腫瘍細胞やウイルス感染細胞なんかを見つけ次第殺すというのである。
 
私は、覆面をし、背中に長い銃を背負った殺し屋の姿を想像する。殺し屋が物陰から銃を構え、敵を次々倒す。すると、その後ろに控えていたマクロファージという貪食な輩が出てきて、敵の死骸を片っ端から食べて掃除していく。さながら『千と千尋』に出ていた「カオナシ」か。それ以外にもアポトーシスというシステムがあり、不要になった細胞は、自殺するようプログラムされている。
 
私たちがあくせく仕事しているとき、寝っ転がってTⅤでお笑いなんかを見てばか笑いしているとき、もちろん熟睡してほんわか夢見ているときも、体内では免疫細胞と病原体との間の熾烈な闘いが繰り広げられている。免疫細胞が正常に機能してくれなければ、我々はたちまち病気になってしまう。
 
なぜそうなっているかというと、我々の細胞に組み込まれた遺伝子がそのように指令するからだ。遺伝子という設計図は細胞の1つ1つに組み込まれている。細胞から構成される器官だって遺伝子の指令で動いている。ということは・・・。その器官から構成される人間は、というか、全ての生物は、遺伝子の支配から逃れられないってことじゃないですか?
 
よく野生動物のドキュメンタリー番組なんかで見る動物は、主に2種類の活動をしてその生涯の大半の時間を過ごす。捕食、食物摂取を含む生命維持活動と、求愛、交尾、子育てを含む生殖活動だ。個体そのものの生命を維持する活動と、子孫を生み育てる活動とも言える。

成長した雄同士が出くわせば闘っているが、これも要は雌の取り合いで、生殖活動に含めることにする。今朝もエチオピアで暮らすマントヒヒの生態を偶然TⅤで見たが、草食の彼らは一日中草をむしっては口に運んでいた。群れに別の雄がやってくると、ボスの雄が歯茎や牙をむき出して威嚇し、追い払う。そして生殖活動。それを来る日も来る日も延々と繰り返すのだ。

ライオンをはじめ、肉食獣は強いというイメージだが、とんでもない。ライオンも子供を一人前に育てるのは一苦労だ。小さいうちは、ジャッカルやハイエナの餌食となる。水牛を襲うのは命がけ、インペラは足が速く、短期決戦でいかないと、こっちのスタミナがもたない。狩りに長けた雌ライオンもよく取り逃がす。だが、仕留めなければ子供たちは飢え死にする。
 
それ以外にもよく見るのは鮭の遡上だ。成長した鮭は海から川を上流へとさかのぼっていく。かなりの急勾配を何度も落ちては上り落ちては上りして、ボロボロになりながらも上流になんとかたどり着く。そこで最後の力を振り絞り、産卵、受精して果てるのだ。死んだ親鮭の身は孵化した稚魚の栄養となる。
 
野生動物の暮らしは酷に見える。その酷な暮らしから逃れたい、自由になりたいとと、野生生活から逃れる、そんな動物はまずいない。どんなに過酷でも、どんなに単調でも、その生を全うする、できなかったとしても全うしようとする。そんな姿を目にして、私は野生動物にはとうていかなわないと心底思う。
 
彼らにとっては、遺伝子の支配下で、本能に従って生きるしか自由がない。むしろそれこそが自由なのだ。野生動物が人間によって捕獲され、動物園の展示動物やペットとして飼われたとする。餌や生殖活動には困らないかもしれない、でも檻やケージ、水槽の中に閉じ込まれた彼らは、自由だろうか? 野生動物にとっては、どんなに過酷でも、本来の野生環境で暮らしてこそ、自由と言えるのではなかろうか。
 
人間ももちろん遺伝子の支配下で生きている。そもそも人間として誕生したこと自体、遺伝子がなければ起こらなかったことだ。人間も生涯に何度も困難に直面するが、遺伝子はあらゆる手を使い、我々を生存させようとする。空腹であれば、食欲が沸く。好ましい性対象を見て惹かれる。我々が食欲や性欲を持ち、満たしたときに快感を覚えるのも遺伝子の仕業なら、死への恐怖だって、死を回避させるために仕組まれているのかもしれない。絶望しても絶望しても、希望を求めて生き続けようと立ち上がらせる力もそうなのかもしれない。
 
それもこれも遺伝子が仕組んでいる。すべて、遺伝子を次の世代に受け継がせるために。だから遺伝子という名が付いたのだ。そこで私は愕然とする。じゃあ、私たちは、遺伝子の乗り物に過ぎないんじゃないのか。そしてまた問うてみる。そこに自由はあるんか?と。
 
私は遺伝子を子孫に受け継ぐためだけに生きているんじゃない!と足掻くくらいしか私にはできない。それでも、せめて精一杯もがき、足掻いていこうと思う。


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