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私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(14)- 香港移住で壁にぶつかる -

家探し

まず最初は住む所。迎えに来てくれた友人の家に一週間ほどお世話になった。いわゆる公屋=政府の賃貸住宅。ベランダの端っこにトイレが設置してある。シャワーがどこにあるのか聞いたら「トイレにあるだろ」と言われた時の衝撃。かなりのカルチャーショック。

その友人が Prince Edward 太子で茶餐廳を経営していたので、何かあったらそこへ飛び込めば助けてもらえると思い、最初の家をその近くに決めた。
家探しの必要最低条件は「バスタブ付き」「フローリング」「南向き」。なかなかに難しい条件だったけれど、上手い具合にまだ誰も借り手がついていなかった物件があった。リノリウム床は寒いからフローリングという条件は絶対に譲れなかった。フローリング物件だったのは良かったけれど、実は床がまっすぐじゃなかったというオチ付き。それが当時の香港クオリティ。郷に入っては郷に従え。

仕事探し

貿易会社を辞めることにした時、お客さんには「来月で辞めます。」と伝えた。「辞めてどうするの?」「香港に移住します。」「せっかくだからウチの香港法人に来る?話を通しておいてあげるから、給料が妥協ラインならウチへおいでよ。」と言っていただいて、実は半決まりで香港に行ったのだった。面接で提示してもらった給料も、これなら暮らしていけるな、という額だったので即決。本当にありがたいスタートだった。

が、やはり旅行と居住では随分違う。

香港人は冷房が大好き。空気が冷たくないと新鮮ではないと信じているので、クーラーの温度設定が半端ない。旅行なら、オフィスに一日中座っていることなどない。オフィスがそこまで寒いところだとは思わなかったので、初日は軽装で行ってしまい風邪を引いた。これが誤算その1。

誤算その2。

広東語に対する自信がズタズタ

独学でとことんインプットもしたし、単語ノートも作ったし、旅行も10回はして実戦積んできたし、自分の広東語レベルは7割ぐらいのつもりで移住してきた。ところが、仕事を始めた途端、凍り付いた。

ウソやろ・・・5割しかわからん・・・。
私の広東語レベルはたかだか5割だったのか・・・。

ここから必死になった。旅行で来て実地訓練していても、店の人とはそうそうたくさん喋らないから自分の広東語がいけてる気がしていた。友人達も友人だからこそ私のレベルに合わせて手加減してくれていたわけだ。そんな甘ったるいことではいけない。誰もが私に向かってわかりやすくゆっくり喋ってくれるわけではない。香港人の通常のスピードについていけるようにならねば。えてして自分を追い込む環境に飛び込んだわけだ。

香港で就職・・・のはずが

就職した会社の主力商品は実はオルゴールではなく精密モーターで、ちょうど広東省東莞市石龍鎮に生産拠点となる工場を立ち上げるプロジェクトに着手したところだった。プロジェクトを任せている投資コンサルタントの一人が日本語を話せるといったって一人で全てできる規模のプロジェクトではない。そこへ飛んで火にいる夏の虫。広東語を解する日本人が入って来たということで、私は工場立ち上げから稼働して軌道に乗せるまでの一切合切を担当するコーディネイターというお役目を預かった。

晴れて香港に暮らし始めたはずの私だったが、このプロジェクトのおかげで毎週毎週、石龍鎮に4日間、香港に3日間という暮らしになってしまった。毎週だよ、毎週。今は無き佐敦道碼頭から石龍鎮への直通バスに乗って、順当にいけば3時間、途中で何かあれば何時間で着くかわからない、という時代だった。

大陸はカオス

深圳から廣州へ抜ける高速道路を建設し始めた時期だったので、大陸内はほぼ下道を走った。舗装されていないところも多く、雨でも降ろうものならあちこちに大きな水たまりは出来るわ、嵌って抜けられない車は出るわ、もうカオス。交通ルールや信号などあって無きもの。赤信号?関係ない。自分が進みたければ進む。3車線道路なのに車は4列に並んでいる。こちらはスムースに流れているが対向車線が渋滞していたら中央分離帯無視で向こうから車が入ってくる入ってくる。マジでカオス。同じルートのはずなのに毎回違う道を走る。雨降りの日には水たまりの少なそうなルートを走る。これは良いとしよう。あらら、どこ行くのー?と思ったら一部分だけ出来ている高速道路に勝手に入って走る。しかし建築中なので工事の作業員があちこちでツルハシ振るったり座り込んだり道を横切ったりしている。恐ろしすぎる。まさしくカオス。

私の経験した最長記録は6時間。全香港人社員から嫌われていた日本人駐在員が一度11時間かかったことがある。携帯電話の無い時代。「バスは着いたのか?」「まだだ」「会社はいつものバスに乗ったと言っている」「事故か?」「わからない」到着時は当然夜中、本人はヘロヘロだったけれど周りは「やっぱり日頃の行いだな」とほくそ笑んでいた。なんてこともあった。

当時、石龍鎮は日本企業を積極的に誘致していたのにホテルが2軒しか無かった。私の会社の定宿は石龍賓館。服務員たちは皆気のいい子ばかりだったけれども無頓着すぎるきらいもあった。夜中にドアをノックする音。何かと思って返事だけしてみると「要不要?=要る?」と女の子が普通話で聞いてくる。「不要!!=要らねえよ!!」と叫んで寝るが、途中で起こされたので寝付かない。翌朝、レセプションの女の子に「私の部屋には来させるな!」と激おこで言っておく。夜の相手を生業とする女の子たちが毎晩全部屋をノックして回るのだ。ホテルの服務員は皆お友達になってしまっているので知っていて野放しにしている。その夜、夜中に電話が鳴る。「要不要?=要る?」と女の子。「不要って言ってんだろ!!!」翌朝また激おこでレセプションに「私の部屋には電話もかけさせるな!部屋番号を皆に周知しておけ!」と言っておく。これが日常だった。

また脱線してしまったので次は言語のことと業務的なことを書こう。(続)

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