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私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(29)- NHKBS「アナザー・ストーリーズ」香港編その1 -

次の港へ

そして私の人生はいよいよビッグ・サプライズな方向へ大きく舵を切り、本格的に自分の望んでいた航路へと進む為の風を受け始める。

大阪観光局を表向きは契約満了での更新無しとなり、フリーランスという肩書のプー太郎になった。通訳・翻訳の仕事をとにかくやらねば、と思っていたところ、アメリカの友人が以前に出版した『Regards from the DRAON - SEATTLE -』の日本語版を出版することが決まり、当面の収入は無いものの、とりあえずやるべきことが決まった。

『Regards from the DRAON - SEATTLE - 』
『ブルース・リーからの手紙 - シアトル編 -』

やはり私の人生は李小龍なんだ。結局龍哥絡みのことをやることになっているわけだね、と納得しつつ翻訳にいそしむ。そりゃもう大変な作業だった。大喧嘩しながら17稿ぐらい入れた。詳細は書かないけれど、敬愛する龍哥に関する案件で、自分の天職だと言えるぐらい大好きな翻訳の仕事なのに、こんなに不快樂なことがあり得るのかと思ったほどの行程だった。最終的に翻訳版は Vol.1 のみが出た。待っててくださる方がいるのに心苦しいが Vol.2 は多分もう出ないでしょう。

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NHKBS「アナザー・ストーリーズ」
”燃えよドラゴン”誕生 ブルース・リー最後の闘い

上記の翻訳作業をやり始めて間もなく、TV番組のコーディネイトの話が飛び込んできた。NHKBS「アナザー・ストーリーズ」の『”燃えよドラゴン”誕生 ブルース・リー 最後の闘い』である。

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楽しかった。水を得た魚になれた。新しいことをたくさん学んだ。私にこの仕事をくださるきっかけになった皆さんに感謝する。

この番組はもうオンデマンドでは観られないのかな?未だに「『アナザー・ストーリーズ』に出てましたよね?」と言ってくださる方がいるので、まだ観られるのかな?私の知る限り、某氏がブログでボロクソに書いていた以外は全て好評だったので、龍迷の皆さんには好評だったのだと思う。ボロクソなブログはどうやら早々に削除された模様。

3部構成になっている中で全てのパートに関わらせてもらえたことに本当に感謝しかない。龍迷の喜ぶネタもご無沙汰だったし、各パートごとの様々なエピソードを披露してみよう。

第1部 - 香港 -

まず先に行ったのは香港。私に声を掛けるより先に現地のコーディネイション会社に発注済みだったので、インタビュイーは基本的にコーディネイション会社が探す。当然まずは大物から狙うわけだけれど、日本のファンが喜ぶ大物を捕まえてこれない。

プロデューサーからなんとか繋げて欲しいと私にもお願いされたけれど残念ながらお力になれなかった。SH氏は連絡はしたもののOKをもらえず、DY氏は仲介になってもらえる適材が当時は見つからなかった。今なら速攻繋がるのに、タイミングが合わないというのはこういうことね。もう一人別の大物CC氏には繋がって出演OKもらったのだけれど、映画の撮影が延びてしまいスケジュールが合わなくなり、結局取材できず。

取材出来たのは数人。まずは Billy Chan 陳會毅氏。我々は親しみを込めて彼をB哥と呼ぶ。監督作品を何本も持つのにとても気さくな方。茶餐廳でバッタリ、なんてこともよくあった。龍哥は俺のことをすごく気に入ってくれて阿Bと呼んでくれていた、『燃えよドラゴン』が終わったら武師7人を連れてアメリカに行く予定だった、そのうちの一人が俺だった、他には元華とか林正英とかいたんだ、でも龍哥が急に天に昇ってしまって・・・話してくれたことは本当に興味深いことばかりだった。

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そして Michael Lai 黎小田氏。番組の主柱である『燃えよドラゴン』にはあまり関係ないので、インタビュイーと決まった時には「ん???」と思ったけれど、子供の頃に龍哥に引っ付いて喧嘩の外野をして回ったというエピソードからなんとかして絡みを作るというディレクターの努力は尊重したい。

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龍哥が通った中学・高校ということで撮影させていただいた St. Francis Xavier's College 聖芳濟書院への撮影許可はウチ(李小龍會)が手配したのだったと思う。

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李小龍會は聖芳濟書院OBの方達ととても良い関係を築いていて、2013年7月20日には校庭でイベントを開催させていただいたほど。この時には日本のファンの皆さんも香港に来られて、龍哥の母校の校内でのイベントに参加したというのは良い思い出になったことと思う。

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番組の中で龍哥がぶち壊したトイレのドアを紹介している。のだが、実はトイレがここではなくて、もう一方の方のトイレだったことが後に判明してしまった。この時ナビゲートしてくれた若い先生は、若すぎて龍哥がいた頃にはこの学校にはいなかったし、この先生にこのトイレだと教えた先生もあまりよく知らなかったらしい。ので、若先生も間違って教えた先生も番組も無実なのでどなたも責めないでくださいな。

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ほんの最近、St. Francis Xavier's College 聖芳濟書院OBへのインタビュー映像が出てきて、そこで龍哥が1973年に同校へ体育祭のプレゼンターとして来た際に「トイレのドアはまだ壊れたままか?」と言ったと話している。

さて、『”燃えよドラゴン”誕生 ブルース・リー 最後の闘い』香港編は次にも書くよ。(続)

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