「対等」なコミュニケーションの難しさ

近年は「ダイバーシティ」などということが言われ、多様な人材が同じ空間で活動するような場面が増えてきた。しかし、人間には男女の性別だけではなく、年齢、人種、職歴、学歴、資格など様々な「違い」があるのも事実である。

例えば、現在もある程度そうだが、日本社会では「先輩と後輩」というような特殊な秩序が存在している。

これは「入社した年次による差別」というようなものだが、善いか悪いかは別として、ある種の「秩序」であることは間違いない。

また、学歴や資格、性別、年齢というような要素も関わってくる。

業界によってはさらに「人種」や「宗教」というファクターがこれに加わってくるだろう。

特に、日本では職種や年齢のよる「威光」というものが、今も幅を利かせている部分はある。もっと言うと、日本人は「フラットなコミュニケーション」が元々苦手な面はあるのではなかろうか。(この根源が「儒教思想にある」という人もいれば「大乗仏教が悪い」という意見の人もいるが割愛する) どうしても「支配ー服従」の関係になってしまいがちだ。

時折、職場の指揮命令系統に逆らって、戦国時代の「傾奇者」のような態度を取る者もいるが、これは「支配ー服従」システムへの反動、反逆のような意味合いもある。そもそもがフラットなシステムであれば、あえて傾く必要も無い訳だ。

近代社会、近代思想は、この「支配ー服従システム」からの脱却を目指した所はある。

「近代人権思想」というのはこの「支配ー服従システム」を終わらせる究極理念のようなものである。

「先輩-後輩システム」が業務を円滑にするための、すなわち究極的には幸福をもたらす為の「社会的機能」であるならば問題が無いのだが、「単純に身分制度」になっている可能性もある。「後輩は先輩を立てて、先輩は後輩の面倒を見る」という「うるわしき徒弟制度」としてのシステムならば問題は無いが、時折相撲部屋のかわいがり事件のような事が引き起こされたりする。やはりどんなに美化されても「親分子分」の関係である限り「対等」ではない。土居健郎の言う「甘えの構造」ではないが、我々日本人は、まったくの対等なコミュニケーションというのを構築するのにやはり慣れていない面はあるだろう。

家庭を考えても、妻と夫が、それぞれ「対等」にお互いの時間を大事にしながら敬意をもって付き合うということになると、途端に「よそよそしい感じ」にならないだろうか?夫が妻を「かぁちゃん、かぁちゃん」と言って甘えるか、妻が夫に子供のように甘えるか、結局どちらかがどちらかを「保護する」というような関係以外の関係を構築するのが、やはり、難しい面はあると思う。しかし、こういう、一種の依存関係はどこかで破綻が来る。一方的な支配には人間は我慢できないというのも事実なのだ。結局のところ、この、一種の「よそよそしさ」の中でコミュニケーションを深めて行く必要がある。しかも、それは「一方が一方に取り込まれる」という関係であってはならない訳だ。

この「よそよそしさ」の中に「他者」というものが初めて登場する。

他者としての妻、他者としての子供、他者としての家族というものは、日本人の関係性の中に、これまでは無かったパターンなのかもしれない。

夫は妻に妻は夫に「言葉に出さないでも分かってくれよ」とばかりに感情をぶつけるが、これからは「はっきりと言葉にする」ということも大事になると思う。

我々は、たとえ家族であっても、それぞれ別の世界、別の価値、別の歴史を持った「他者」(世界内存在)なのである。全く同じ世界を共有することは不可能であるし、我々が意識できるのは世界の「断片」でしかなく、世界を言葉で表現しきるということは不可能であるが、言葉以外に他者に己から見た世界を伝える方法も無い訳で、コミュニケーション能力とは、いかに自分の欲求、目標、現状を言語化できるかという問題でもある。そして、何よりも、他者への「敬意」を伝える能力が必須である。

表題に戻ると、多様性社会においては、相手への敬意を伝える能力が非常に重要になる。言語と言ったが、スマイルを含めた身体的行為によってもそれは伝わるだろう。「あなたを肯定している」ということを伝えること、そのうえで協働するということも成り立つのだろう。このテーマに関しては、今後も引き続き考えて行きたいと思う。



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