アリストテレス『政治学』を読む


この本は『ニコマコス倫理学』の結論を発展させる形で書かれたと述べられている。アリストテレスの倫理学の結論とは何だろうか?それは「人生の究極的な目的は幸福にあり、幸福な人生とは自律的な知性の発揮にある」というものである。勇気や倹約といった美徳は、知性によって秩序付けられた行為であって、その本質は知にある。人間は知性を根本に置いた生活を送ることで幸福を実現するという論旨である。

そして、人間というものがこのような本質を持つ存在者であるとすると、国家には、人間が哲学をしたり中庸の生活を実現したりすることをサポートするという役割が期待される。

『政治学』は大体こういう論旨になっているはずだが、色々と後世に批判されているのが「奴隷制度」についてのアリストテレスの見解である。これはプラトンの議論を受け継いだところもあるだろうが、人間には、自由市民と奴隷という階級があるだけではなく、魂が奴隷に生まれついている者と自由市民に相応しい人間とが居るという。奴隷的な人間とは、生まれながら、或いは習慣によって、欲望に従って破滅するようなタイプの人間で、このような人間には「指導者」が必要になる。自然(ピュシス)は奴隷的な人間とそれらを管理監督する支配者的な人間を生み出しており、彼らは自然に結合して「国家」を作る訳だ。動物学者のアリストテレスは、ある種の昆虫の生態なども考慮していたのかもしれない。確かに自然は「女王バチ」と「働きバチ」のようなものを作り出し、両者が協働して「ハチの組織」というものが成立している。奴隷には奴隷の徳があり、頑健な肉体やへこたれない根性というものが生来的に備わっている。もし、奴隷的な魂を持つ人間が自由市民として生まれ、自由市民的な明晰な知性の持ち主が奴隷に生まれたら、悲劇であるが、度々ありうることである、というようなことをアリストテレスは述べている。これは「奴隷制度肯定論」というより「階級制度批判」とも受け取れる内容ともいえるだろう。もし「自由競争」にさらされれば「奴隷」と「貴族」の立場はすっかり入れ替わるかもしれない、という話にもなるからである。また、『倫理学』を読むと、自由市民としての「教育」の大事さが語られる。つまり、「自由市民」としての人格は後天的に形成される部分も大なのであって、しっかりとした教育が伴えば「奴隷の子」でも、立派な自由市民になりえる可能性も示唆しているからである。逆に教育の堕落は現行のギリシア市民の堕落(奴隷化)に繋がり、他国の奴隷にされてしまう危険性も示唆している。実際、ギリシア地域は、マケドニアやローマ帝国の属州になってしまった。つまり、奴隷か貴族かということは、生来性もあるが、後天性(訓練や教育によるもの)の大きいということである。

ヘーゲルの弁証法ということでいえば、織田信長と木下藤吉郎の例を見ると、織田家に仕える有能な奴隷だった藤吉郎は、主人に命令されて従属しているうちに、つまり、有能な奴隷とは「主人の気持ちは先んじて理解する人」なのであるから、段々と「支配者の気持ち」が分かり、身についてくる訳である。そして、織田信長の死後、藤吉郎は「織田信長のコピーロボット」のように、信長が残した政策を次々に実現していったところがある。初めは奴隷だったが、主人に仕えているうちに、学び、自己管理や勇敢さ、寛容などの徳を学び成長し、「自立する」ということがあり得る訳である。

繰り返すが、織田信長(主人)は家臣が居なければ理想が実現できなかったし、奴隷も親分が居なければ奴隷以下の存在としての人生しか送ることが出来なかった訳で、これらの関係はどちらにもメリットがあると考える事が出来る。この意味で「奴隷制度の肯定」は否定できない面もある。というのも、現在も殆どのサラリーマンは昔の足軽のように企業に仕えている訳である。

しかし、組織に奉仕するうちに「組織の運営の仕方」や「経営管理」を覚えて、独立するリーマンもいるわけだから、奴隷と主人は固定的な身分とは言えないし、奴隷制度のようなものが実質的に存在している(法の統制が行き届かないブラック企業がある)ということも事実なのではなかろうか。

そして、「奴隷制度」のようなものがあっても、それを日本国民が否定の運動を起こさないとすれば、それは「根っから奴隷」になっている訳で、実質的にアメリカや中国と言ったその時々の「支配民族」(やブラック企業)に支配されるのも、仕方がない運命ということになってしまう。これはギリシアが周辺蛮族に支配されたようなものである。

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