見出し画像

これは最後の東京五輪、なのかもしれない。

僕は担当者ではないけれど、それなりに近いところで仕事をしていたし、無責任にあれこれ書ける立場でもないし、そうしたいわけでもない。

でも、スポーツに関わる人間として、フェアだと思うことを書き残しておくのは必要だし無意味なことではないと思う。なので、あくまで自分の気持ちの整理として、おそらく無駄に長い長い話になる気がするのだけど、このnoteに書き残しておきたいと思います。

まず、最初に、一年遅れたけれどTokyo 2020が始まったこと、すごくホッとしているし、キャンセルにならなくて本当に良かったと思っている。残念ながら無観客にはなってしまったけど、以前にもnoteでアップしたように↓

僕の意見では今回はそれが最善だと思っていたので、これは仕方ない。あとは、この舞台でどれだけフェアな戦いの場を用意してあげられるかが大事で、それさえ整っていれば最上のドラマはアスリートがしっかりと作り出してくれるはずだ。そして、そのために働いている無数のプロフェッショナルたちの仕事がどれだけスゴイのかは、僕が書かなくても、画面から伝わってくるはず、だと思う。

さて。まずはやはり開会式に触れないわけにはいかない。たけしさん、デーブ、そしてもう星の数ほどのTwitter民の皆さん、厳しい意見が本当に多かった。中にはかなり感情的なものも多かったけど、冷静にまとまっていた記事としては、これなんかはしっかり書かれていると思いました。

僕はこの著者の方を存じ上げないけれど、冷静な視点で書きたい、という意向は充分伝わりました。これだけみんなが冷静さを欠いて発信している中で、それってとても難しい。僕のこの文章もそうありたいと思うけど、やっぱり色々な受け取られ方をイメージしなければいけないのは確かだから、いろいろ気を遣います。世の中の皆さんのネガティブなコメントには本当に悲しくなるけど、一方で、それを引き起こすだけのミスがなかったかといえば、否定はできない部分もある。正直、反省すべき点は少なくない、とは思う。ここにも書かれているMIKIKOさんに対する対応なんかは、事実だとすればとても悲しい。人選についてももう少しいいやり方はあっただろう。

ただ、よく使われている「中抜き」という言葉はどうにも腑に落ちない。ほとんどの人が、イメージでこの言葉を使っていると思うんだけど、その言葉はプロデュース業に携わる全ての人に対する「いじめ」に近い。プロデューサーはその企てが無事に遂行されるためのリスクを全て負うわけで、その対価は「抜く」ものでもなんでもない。ハリウッド映画のプロデューサーに対して「中抜きしやがって」って言う人は聞いたことがないし、実際、その映画を成立させるために相応の費用を集めてくるのがプロデューサーと言うものだ。

ただ、個人的には、TVクルーのネタも、ピクトグラムのパントマイムも、イメージで「中抜き」しやがってと思っている人に対しては、莫大な予算があるのにこんなキッチュな演出になるなんて、一体どれだけ「中抜き」がされているんだろう、と思われてしまう可能性がある種類の演出だったと思う。そのリスクは仕掛け側も気づかなかったはずはないが、敢えてゴーサインを出したのは世の中の反応を甘くみたからではないだろう。実際のところは分からないが、費用的な必然があったと見るのが筋だと思う。お願いだから中抜きだと言わないで、と祈るような気持ちで送り出したのではないか。残念ながら、危惧した通りの反応になってしまったのは、気の毒というほかない。

なので私はこれらの演出にはポジティブで、特にピクトグラムは一周して和めるコンテンツに仕上がっていたのではないかと考える。ただ、開会式を通じて一番残念だったことは、開会式は日本や東京のプレゼンの場であることはもちろんだが、オリンピックというコンテンツそのものの「競技以外におけるほぼ唯一の」世界中に向けたプレゼンの場である、という視点がおそらく欠けていたことだ。

バッハさんの話は実に長かった。けれど、長いだけでなく、同じことをずっと言ってただけだった。これが勿体ない。彼はただただ、「連帯」ということだけを繰り返していた。Togetherをスローガンに加えた時点で、誰だってそれは受け取りますわ。まるで、小さな子供が「僕を置いていかないで」と懇願しているかのような、そんな連帯感の強調に聞こえた。オリンピックは「オワコン」じゃないということを確かめたいのであれば、それは「懇願」であってはならない。彼にはもっと言うべきことがあったのだ。

実は、去る3月にIOCは新しいオリンピックアジェンダというものを採択している。この文章もそんなに魅力的なものではないのが残念だが、その背景にあるものは何かといえば、危機感だ。世界中は今世紀に入って大きく変革した。オリンピックが今の形であり続けるだけで持続性(サステナビリティ)を持ちえた時代は終わってしまった。例えばFIFAはバロンドールの表彰式にメッシやロナウドを呼ぶだけでなく、サッカーゲームの世界チャンピオンを同じように表彰するようになった。リアルスポーツがeスポーツにとって代わられる可能性も全く否定できない。

まあ、近代オリンピックが最初に開催されたのって1896年ですから、19世紀から続くコンテンツなわけですよ。それがそのまま持続性を持ち得る方がおかしい。同じように19世紀末に産声を上げたコンテンツに「映画」があるが、(ちなみに最初の映画は1895年のリュミエール兄弟と言われている)映画がまっさらなキャンバスのようにどんなドラマも描けるのに対して、オリンピックは国や競技といった「枠」が多くて時代に柔軟に対応していくことに難しさがあり、自分の「国」を応援するという仕組みもまた、過去のように人々を奮い立たせるものであり続ける保証はない。例えば、バーチャルに作られた仮想通貨のような「国」が国籍を発行して、そこが発行するパスポートで世界中を通行できるようになったら、果たしてどれだけの人が自分の「祖国」に思い入れを持つだろうか。オリンピックは、そんな新しい価値観の中ですら生き残ることを模索して形を変えようとしているのだ。

その視点で、今回から新たに採用された種目を見てみると、スケートボードやスポーツクライミング、そして3 x3バスケットボールやサーフィンなどがあるが、これらのスポーツが与える印象はどうだろうか。既に男女で金メダルを獲得して盛り上がっているスケボーについては斬新な印象が随分書き込まれているけれど、重要なのはメダルもさることながら今までのどのスポーツにもないフランクな感じと、敗者が勝者のトリックをすごく喜んでいる絵にある。トラディショナルスポーツが全てそうだとは言わないが、どうしても相手のミスを期待したり、相手のミスで雄叫びをあげたり、という場面が多くなる。これは今までの価値観ではNGではない。

だけどスケボーで派手なトリックを相手が決めた時の「やられたぜベイビー、お前最高だな」みたいな感じは解説の「マジやべー」とも相まってなんとも心地よいですよね。サーフィンもそう。スポーツは相手をbeatするものではなくなってきていて、IOCは実はそのことをよくわかっている。だから、バッハさんは、集まった選手への労いを繰り返すより、テレビの向こうにいる世界中の人に対して、「今回のオリンピックは今までのものとは一味も二味も違います。オリンピックは進化しているのです。見逃さないで!」と言わなければいけなかった。そしてTOCOG(組織委委員会)はそう言わせてあげてほしかった。それが本当に残念です。

長いですよね。すみません。上に採録した安川さんの文章の中でも開会式の一番の欠点はメッセージ性の欠如だ、と書かれていましたが、それはその通りで、色々と言わなければいけないことが多すぎて、それを潰していったらそれで終わっちゃった、という感じなんだと思います。が、実はオリンピックは皆さんにとって不要でしょうか?ということを問いかけることこそが必要なメッセージだったのではないかと思います。この東京でのオリンピックがオリンピックというコンテンツの「終わりの始まり」になったと言われないために。そして、もう僕は生きてないだろうけど、いつかまたここにオリンピックを招致しようという人が現れるために。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?