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地域と国際交流

小さな自治体にとって、国際交流とはなんなんだろうか。
この答えは私の中で明確な答えがある。少し長いけど読んでください。

私が宮崎県綾町へ移住したのは2011年6月の年、勢いで仕事もなくただ移住した。

移住後すぐに役場から連絡があり、韓国の鎮安郡という町と交流をするから是非国際交流員として働いて欲しいと言われた。私は在日の民族学校へ行っていたけど、例えるならば言語は”コリアンジャパニーズ”であった。当時の役場の職員は”あなた以外韓国語はわからないから多少間違っていても誰も気づかないから大丈夫”とか”交流は長いから今すぐ完璧に話せなくても大丈夫”と謎の説得に乗せられて、絵を描くことをやめようとしていた私は、生まれての初めてのカタギの仕事についたのだった。

韓国鎮安郡との交流が始まったのは
綾町のまちづくりを描いた”結の心”という本が韓国語に訳されていたことから、その本をバイブルにしていた鎮安郡の村づくりの仕掛け人からの、熱烈なラブコールに応えるものだった。
その人のプロデュースにより鎮安郡は有機農業のまちづくり、公民館活動やほんものセンターなどの取り組みを習い郡に反映させたいと、数年前から視察団が綾町を訪れ交流は盛んになっていた。
その交流は私が移住した2011年には深まり、友好交流協定を結びましょうというタイミングで私に声がかかったのだった。

少しずれるが、当時の私はといえば実は韓国嫌いであった。
高校生の時にアルバイトをしていた焼肉屋で、韓国人に話しかけたところ大きな声で笑われた。自分の話す韓国語がおかしいなんて少しも思ってもいなかった私は、本当に恥ずかしくてもう韓国語も韓国人も嫌になってしまったのだ。

そんな私が綾町へ来て韓国の仕事に携わるようになるなんて考えてもいなかったし、初めの頃は言葉もわからないのに通訳をしなければないし何を言っているのかわからなくて、いつも泣いていた。それからは勉強のために韓国ドラマを見て、週に一度韓国人に韓国語を習い、バスガイドで来た韓国人に恥を忍んで通訳をお願いした。そんなふうにしながら私は韓国語を少しづつ習得していった。

交流はというと年に一度、鎮安郡の郡民の日や綾の工芸祭りの日に行政が行ったり来たりして、民間交流も年に一回程度する、勢いがすごい鎮安郡からは年に一度どころか様々な団体が視察に訪れて、その度に私は綾町の有機農業開発センターや道の駅発祥のほんものセンター、日本一の面積を有する照葉樹林を見るために作られた照葉大吊橋を案内して町の成り立ちや有機農業のシステムにつて説明した。農家さんや工芸家、加工部会の人たちを尋ねては通訳して、そうやって移住者の私は、町のことを知って、人々に馴染んでいった。

交流の中で学んだことはたくさんあるけど、
私と当時の企画財政課の課長は、民間交流を進める事に意義を感じていた。
年に一度どんな人たちを鎮安郡へ連れて行くべきか考え、ある年は有機農業の農家さん達を、ある年は工芸コミュニティの工芸家たちを、ある年は小学校の合唱部を、また別の年には中学校の卓球部を、キムチ作りの勉強に婦人部が行った年もあった。

行政の議員や役場の職員が交流した時には、いつも”何か得ることがないか”という視点が付き纏った。”この町(郡)は自分たちに何をもたらしてくれるんだろう”と。そのせいかいつも”意にそぐうのかそうわないのか”という視点でそこに”人”はいなかったように思う。

その点、民間交流は違った。一緒にマッコリを飲み、お気に入りの食べ物を紹介し、お互いの作っているものを見せ合った。文化について考え専門的な知識の交流があった。うちの地域ではこうだとか次は何ができるかを話し合ったりした。子供達が行った時には綾の子供達がやってきたと、卓球大会に参加した子達に手作りの表彰状を一人一人にプレゼントしてくれた。

中でも綾の染織工房”綾紬”に伝統的な藍染を習いに来たキムさんと秋山先生は今も師弟のような関係で心が結ばれているように思う。

民間交流のその先には確実に”人”がいたのだ。


そんな8年ほど続いた交流は、いつも政治的な事情で翻弄されたり、コロナによって疎遠になってしまったけど、鎮安郡の民間の人たちからは今も連絡があり、その度にいつだって親戚のように綾の人たちを迎えてくれた懐かしい顔が思い出される。


小さな自治体にとっての国際交流とはなんなんだろうか。

とても稚拙に聞こえるかもしれないけれど、あえて言う。
それは”友達を作ること”だと思う。

異国の地にいる人々に想いを馳せること。
戦争や災害があったときにあの人たちは大丈夫だろうかと心配すること。
もしも友達がいなければ、そんな自分と無関係な国や地域のことを
憂いたり思ったりすることなはい。
世界には自分と全く違う価値観や基準で動いている人がいると知ること、それを知ることは小さな場所で渦巻いている視野から少し離れ、近景から遠景へと導く。交流が子供達や人びとの視野を広げるきっかけになるだろう。もっと自由な発想でいいんだ、自分の悩みは小さなことなんだ。でもいい。その視点は、まだ見ぬ誰かを助けたり、国際社会へ貢献する人材を育成するかもしれない。親戚のように接してくれる外国の人たちがいるからこそ深い交流が出来、国際交流の価値を最大限に引き出すことができるのだ。そこに行政の力があれば安全な形で町民は守られる。

予算がない自治体にとっては友達作りに予算は使えないというのが普通かもしれないけれど、もしも周回遅れのまちづくりの取り組みならそこに予算を使い続けることも、どちらにせよそれは泡銭だ。

”価値”を何に置くのか。それは”豊かさとは何か”という哲学に起因しなくてはならない。”なんて豊かなんだろうかこの町は”ということが何なんだろうかとふと考える。それは一見何の利にもならないような事に価値を見出せるかどうか、末端の人たちにまで及ぶような幸福をどう考えるのか。という事にヒントがあるような気がしてならない。

国際交流のあり方もその一端を担って欲しいと思っている、ちょっと思うところがあってこの記事を書きました。

なんちゃって国際交流員の独り言でした。

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