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僕が写真で伝える理由。

 気づけば、文字を介して知識や感動を得ることが好きになった。現実世界の事象や、そこで起きた瞬間と出来事を自分以外の第三者によって紐解かれ続けていく「言葉」が好きだ。逆に、それを自身の言葉で伝えることも好きだ。自分にしかない経験をその時に生まれた感情を載せて語ることができる。それによって、時に第三者に対して斬新な何かを生み出す一つの切り口になるかもしれないからだ。
 また、現実に存在する言葉とその意味が示す事象についてじっくり考えられる「写真撮影」が好きだ。ここでは「写真」というより「撮影」に向かうという行動自体に好意を向けた方が都合がいいのかもしれない。自分がその時に見たという事実像を静止画という形で記録できることは、これから老いていく歳月とそれに比例する経験の多さによって自分の思考と観察眼の変化を楽しむきっかけになる。

 人間には他の生き物にはない唯一無二の力がある。それは他でもない「思考する」ということだ。これまでの歴史でも、何かの物事に対する理由を論理的に解決するためにありとあらゆる言葉を生成してきた。結論に辿り着くために何かしら一定の状態に取り留める決定打を模索する。この活動は他の生き物にはできない。その上、この世に存在する人間には不特定多数の意志があり、そっくりそのまま同じものを持つものは存在しない。何かの遺伝や影響を受けることでそれを模倣しようとすることは可能であるが、コピーアンドペーストは存在しない。だからこそ「個性」と呼ばれるものや「オリジナリティ」というものが存在する。
 これは写真にも同じことが言えると思う。一年半ほど前に趣味で写真を展示することが一大ブームになったのをご存知だろうか?SNSなどのデジタルメディアでは説明しきれないことを面と向かって話し合い交流する場が、今でも流行っている。これは、毎日小さな画面に視線を落とし、その他の広い世界を見ることがない現代人の窮屈な日常を打破する大きなきっかけになったと私は思う。
 カメラを手に写真を楽しむ人間のほとんどは、自分が見たい世界を写すためであるものが多い。だが、それは一般的に言われているとされる平均的なものであって、個々の理由を問うとそれぞれの意図とそれに基づいた経験がある。十人十色という四字熟語がある通り、一見同じ景色を撮っている写真でも違うように見えるのは、おそらく撮っている人それぞれのオリジナルの思考とその時の感情が身体を伝ってカメラに影響しているからだと確信している。自分自身が現実に起こった事象について噛み砕くことで、自分の意見に主体性が生まれる。だから自分の「好き」や「マインド」が相手に伝わる。これらを踏まえるとヴィジュアルだけの格好良さにとどまることのない印象的な一品ものは、自分自身の感じたことを発表し伝えることで完成するともいえるだろう。

ここで、一つ僕の作品を見ていただこうと思う。
あえて、タイトルはありきたりで使い回しが効きやすいものを選んだ。
そのほうが上の文章を読んだ後には相応しいかもしれないとか考えた。
あいにく、この文章を打っている人は性格が悪いからどうしても「考えさせられる文章」を書いてしまう。マジですいません。(思ってない)

前座はさておき、ここからは少し肩の力を抜いて写真を見ていただければ幸いである。
※模倣してもイイヨ!‼︎

【記憶】

写真にはデジタルとアナログの世界が存在する。

デジタルはいくらでも使い回しが効くが、ふとした時にどこか知らない場所に消えていってしまう。色々と情報の書き換えができるが、そこには真実は存在しないものがほとんどだ。撮影者が自身の思い描く精神世界を具現化することに使われる気がする。(まあ、多分こんなもんやろ)

その反面、アナログ(フィルム)は使い回しがきかない上に、現実で形になったものはどんどん嵩張っていくため邪魔くさくて不便だ。しかし、自分がファインダー越しに見た景色をその場で像として残すためドキュメンタリー性がある。書き換えができない情報の残し方ができるからこそ、撮影した者の記憶と遜色のない世界を見ることができる。

最近、日常をフィルムで撮ることが増えた。
再開発で変わりゆく街並みがその時代に生きた人々の慣れ親しみを置いていってしまう。時間と重力に逆らえずに、黒いアスファルトが寂しさを吸収しきれていないように見えた。僕が今死ぬほど通っている当たり前で毎日行き来するほどに大好きな場所もいつか消えてなくなるかもしれないことに焦燥感と不安を覚えた。そんな現実に立ち向かう気力も体力も持ち合わせていないか弱い体に生まれてきてしまった自分に嫌気が差しながらも、今を生きることに集中していく。


続きは気が向いたら書くよw

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