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「小説でもなければ、詩でもなく、ましてや歴史記述でもない」——トルストイ『戦争と平和』を読む

アンナにすばらしいパーティのお礼を言って、客たちはそれぞれ家に帰りはじめた。
ピエールは不格好だった。太っていて、人並以上に背が高く、幅が広くて、でっかい赤い手をしていて、彼は俗に言うように、客間(サロン)に入るこつを知らず、それ以上に、サロンから出るこつを、つまり、出る前に何かとくに感じのいいことを言うこつを知らなかった。おまけに、彼はぼんやりしていた。立ち上がるときに、自分の帽子のかわりに、将軍の鳥の羽のついた三角の帽子をつかみ、将軍が返してくれと頼むまで、羽飾りをむしりながら手に持っていた。しかし、彼のぼんやりしたところも、サロンに入るこつや、サロンで話をするこつを知らないところもすべて、善良、素朴、謙遜のにじみ出た表情で償われていた。

トルストイ『戦争と平和(一)』藤沼貴訳, 岩波文庫, 2006. p.65.

レフ・トルストイ(Lev Nikolayevich Tolstoy, 1828 - 1910)は、帝政ロシアの小説家、思想家。フョードル・ドストエフスキー、イワン・ツルゲーネフと並び、19世紀ロシア文学を代表する文豪。代表作に『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』など。文学のみならず、政治・社会にも大きな影響を与えた。非暴力主義者としても知られる。

『戦争と平和』は、帝政ロシア末期の長編小説。トルストイが36歳から40歳のときに執筆された。サマセット・モームは『世界の十大小説』で「あらゆる小説の中でもっとも偉大な作品」と評している。ストーリーは、19世紀前半のナポレオン戦争の時代を舞台に、あるロシア貴族の3つの一族の興亡を中心に描き、ピエールとナターシャの恋と新しい時代への目覚めを点描しながら綴った群像小説である。登場人物の一人ピエール・ベズーホフは、著者トルストイの分身と見られ、没落していくロシア貴族から、大地の上で強く生き続けるロシアの農民の生き様への傾倒へと続くピエールの魂の遍歴は、著者の心の動きの反映とも言われる。

引用したのは第一部冒頭に近い、社交界サロンでのピエールのあるふるまいの後の描写である。1805年、首都ペテルブルクでは、神聖ローマ帝国などの対仏大同盟が成立し、ナポレオンとの戦争が目前に迫っている。フランスから帰ったばかりのピエールは、ナポレオンの行動と思想を擁護するようなことを言い、場をしらけさせてしまう。ナポレオン派が行なったとされるある事件(アンギアン大公の処刑)の是非をめぐり議論がおきたときに、ピエールは「アンギアン大公の処刑は…国家的に必要だった」と述べ、「ナポレオンがこの行為の責任を、自分一身に引き受けるのを恐れなかった点に、まさに心の広さを見る」と述べる。ピエールはさらに「万人の幸福のために、ナポレオンはたったひとりの人間の生命の前で足を止めるわけにはいかなかった」と言い切る。

ピエールが述べているのは、偉大な国家的行為のために個人の犠牲は許されるのかという倫理的な問題である。それとともに、この「不格好」で「ぼんやりしていた」ピエールが、空気を読まずに自分の信じるところを熱っぽく語るその様子は、英雄主義や理想主義に浮かれて、まだあまり世間を知らない若者だった頃のトルストイ自身を描写しているようでもある。

トルストイが生きていた19世紀から20世紀初頭の時代は、産業革命や市民革命が起き、自由と平等を求める風潮が広がるとともに、ロシアでは帝政が揺らぎはじめ、時代が大きく変革するという予感に満ちていた時代だった。トルストイ自身は、裕福な貴族の家庭に生まれ、大学にも進学するも成績は振るわず大学を中退。親から相続した広大な農地を経営し、農民の生活改善を目ざすも、すぐに挫折している。20代前半の若きトルストイはさまざまなことに手を出すも、すべてものにならなかったという。思想的にはルソーを耽読し、その影響は生涯続いた。トルストイは戦争の従軍経験もあり、1853年(25歳時)にクリミア戦争に行っている。セヴァストポリ包囲戦での悲惨な体験は、のちに非暴力主義を展開する素地ともなった。

『戦争と平和』は、1805年から1812年にかけてのナポレオン戦争を背景に、ロシア社会の変遷を描いているが、この作品はただの歴史小説ではなく、人間の倫理、社会の構造、そして個人の運命に対する深い哲学的探求を含んでいる。トルストイは『戦争と平和』を「小説でもなければ、詩でもなく、ましてや歴史記述でもない」作品と述べている。実際に彼は、重要な歴史的出来事を物語に織り交ぜ、それらを通じて人間性や歴史の流れに対する独自の見解を展開する。トルストイは歴史と哲学を融合させることで、読者に対して、人間とは何か、歴史とは何かという問いを投げかけているわけである。


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