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済州島四・三事件の悲劇と「レッド・コンプレックス」

だが、四・三事件という権力への異議申し立てがもたらした余りにも大きな代償が、そうした済州島民の昔ながらの気風をとことん打ちのめしてしまった。道義や社会正義を語る青年たちがその親族もろとも”暴徒"や"逃避者"家族として惨たらしく犠牲となったのである。四・三事件のさ中では「朝と晩、昨日と今日、そして明日」といった月並みな日常の時間も、人びとの命を左右する"法廷"だった。

この法廷で下される判決にはなんの合理性もなかった。いわゆる"山の人"たちが判事として登場する時間であれば、彼らの言葉と行動がすなわち法であり、軍警と、いわゆる"右翼の人"たちが現れる時間にはまた彼らが法を定めるのみであった。…(中略)…どんなやり方でも順応することだけが命をまともに保てる道であったし、そういう、権力行使に対する沈黙と従順が確実な生き残りのための戦略の一つとして受容されざるを得ない時代だった(金ソッチュン「済州地域の選挙 概括的検討と再解釈」)。

四・三の死の淵から生き延びた人びとは、体制やオカミへの不満や異議は一切口にせず、とにもかくにも「強者につくこと」が生き残る術と思い込むようになった。済州島が久しく「政権与党の票田」とされて来たのもこのためであり、いまでも、いざというときに自らの意見をいわず、「集団の中に埋もれていなければ安心出来ないという"無所信の処世術"」(金鍾旻「四・三以後50年」)が見られるという。
こういう島民の心理的なトラウマの問題は、しばしば「レッド・コンプレックス」として言い表されてきた。

文京洙『済州島四・三事件:「島のくに」の死と再生の物語』岩波現代文庫, 2018. p.144-146.

済州島四・三事件(チェジュドよんさんじけん)は、1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮李承晩(イスンマン)政権下の済州島で起こった島民の蜂起に伴い、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察など朝鮮半島の李承晩支持派が1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す。南朝鮮当局側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察及びその支援を受けた反共団体による大弾圧をおこない、武装蜂起で多くの民間人が死亡した。 合計3万から8万人もの死者を出したと推定されている。また、済州島の村々の70%(山の麓の村々に限れば95%とも)が焼き尽くされたという。済州島虐殺事件とも呼ばれる。

本書『済州島四・三事件:「島のくに」の死と再生の物語』は、済州島の歴史と島民が元々持っていた気風や文化などから解説を始め、四・三事件の詳細な背景と経緯、そして現代に至るまでの歩みを描いている。済州島の気風として、伝統的に女性が強い、女尊男卑の気風があることが挙げられる。建国神話として、玉皇上帝(天上にある万物の主宰者)の娘の、とてつもなく巨大な女神が済州島をつくったという「ソルムンデ・ハルマン」の言い伝えがある。この神話は済州島の創造をめぐる巨大なスーパー・ウーマンの物語として、この地の女性の強靭さを象徴している。さらにこの島には「抵抗」の伝統があった。氏族による支配が強い半島本土と異なり、流刑の島でもあった済州島は、個人主義が発達し、気風は活動的、進取的であった。そのためか、オカミの支配に対してしばしば民衆の抵抗運動が起きたという歴史がある。

1948年4月3日に起きた武装蜂起は大変小規模なものであった。南朝鮮による大統領単独選挙に反対する左派島民の武装蜂起がこの日起こった。警察および右派から12名、武装蜂起側からは2名の死者が出たという。しかし、それを引き金として、この後6年以上続き、数万人の虐殺事件が起きることとなった。それはアメリカ軍政指揮下のもとに、軍および警察、右派勢力による民間人を含めた「焦土化作戦」と呼ばれる徹底的な殺戮だったのである。軍・警察らによる常軌を逸した殺戮は多くの住民を山へと追い込んだが、討伐隊はこうした入山者をも武装隊とみなし、その家族を探し出して虐殺した。多くの無辜の島民が殺されたが、同時に虐殺は各界の有力者や知識層の人びとにまで及んだ。こうした知識人たちはその後の済州島の復興を担うはずの人びとであった。

済州島は元々、土地が痩せ貧しいがために、身分の上下や財産の多寡が生じにくく、植民地期にも半島部ほどの階層分化が見られなかった。「乞無」(物乞いがいない)、「盗無」(泥棒がいない)、「大門無」(家に門がない)の「三無の島」としても知られており、互いに睦まじく分かち合うことで島の共同体は保たれていた「済州島では親戚よりは村共同体が重要な役割を果たす」と言われる。門中にとらわれない近隣同士の婚姻が盛んで、父系のみならず、母系や妻系の親戚までもすべて含む「クェンダン」共同体としての性格が強い。島の住民たちはこうして、共同体の内部では助け合い平和に暮らすが、島外の圧政に対しては捨て身の抵抗も辞さず、多くの民乱や反植民地の抵抗運動の歴史を刻んできたのである。

しかし、四・三事件の歴史がこうした島民の気質をまったく変えてしまったのである。この事件の代償として、オカミに逆らわずに「強者」につくことが生き残る術であるという風潮が生まれた。この集団的トラウマは「レッド・コンプレックス」と呼ばれている。例えば、「誰かが私を罠にかけて"アカ"にしようとしている」とか、「"アカ"が捕らえにくる」というのが、1950〜60年代における精神科の患者の最も多い訴えであったとされる(黄尚翼「医学史的側面から見た「四・三」」)。それほど済州島民において、被害意識は深く内面化し、第二の天性のように凝り固まったのである。

また、四・三の大惨事から生き残った済州島の人びとを待ち受けていたのは、貧困や大飢饉の苦しみであった。済州島の人びとにとって、1950年代は「ポリッコゲ(麦峠)」という忌まわしい言葉とともに記憶される飢餓の時代だった。夏や秋に収穫された麦を中心とする食糧は12月には底をつき、1〜2月には甘藷でなんとか持ちこたえ、春窮期の3月から麦の収穫期までは政府の貸与食糧に頼るほかなかった。「ポリッコゲ(麦峠)」とは、この春窮期を示す言葉だった。こうした済州島の悲惨な歴史を私たちは忘れてはならない。


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