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どこにもない、世界全般に対する「不安」——ハイデガー『存在と時間』より

不安の「対象」は、まったく無規定である。それが無規定であるために、世界の内部のどの存在者から危険が迫ってくるのかが事実上決定できないだけでなく、そもそもかような存在者は「問題にならなく」なっている。(中略)
おびやかすものがどこにもないということが、不安がそれに臨んでおびえているところのものの特徴である。不安は、自分が何に臨んで不安を覚えているのかを「知り」はしない。しかし、「どこにもない」ということは、なにもないということではなく、そのなかには、方面全般が——本質上空間的な内=存在にとっての世界全般の開示態が——含まれている。それゆえにまた、おびやかすものは近さの範囲内で特定の方向から近づいてくるものではありえない。それはすでに「そこに」現存しており——しかも、どこにもない。それはひとの胸をしめつけて息もつけなくするほど切迫していて、しかも、どこにもない。

マルティン・ハイデガー『存在と時間 上』細谷貞雄訳, ちくま学芸文庫, 1994.  p.393-394.(太字は原著では傍点)

ハイデガーの『存在と時間』より、「不安」の意義について。

ここでは、心理学的な「不安」が分析されているのではなく、あくまで「人間(現存在)の存在とは何か」という存在論的な分析を基礎付けるものとして「不安」が取り上げられる。というのも、ハイデガーいわく、私たちが「不安(Angst)」を感じるとき、一体何が起こっているのかを解明することで、人間存在を根源的に捉える契機になるという。

ここでは対照的に「怖れ」が取り上げられる。怖れは明確な対象物を持つ。ハイデガー的な用語では「内世界的存在者」に対して私たちは怖れを抱く。このとき、私たちは何に対して怖れているかを明確に意識している。しかしながら、「不安」は明確な対象物をもたない。そのことを、ハイデガーは「不安の『対象』は、まったく無規定である」とか、「(不安は)おびやかすものがどこにもない」、「不安は、自分が何に臨んで不安を覚えいてるかを『知り』はしない」と表現する。

しかし、これは心理学的な「不安」と「怖れ」の区別を論じているのではないことに注意が必要である。この対象物を知らないという「不安」の心境・気分の特徴は、そのまま、現存在の日常における「頽落」のあり方と同じであるとハイデガーは述べる。「頽落」とは、存在の根源的な意味に背を向けて生きる私たちのあり方をさしている。このとき、私たちは何に対して背を向けているか意識していない。ハイデガーは、この頽落のあり方そのものが「不安」そのものであると言う。つまり、不安は、自分が何を怖れているのかを知らない、そのあり方そのものなのであり、そのとき私たちが背を向けているのは「世界そのもの」なのだという。

しかし、不安が臨んでいるものは「それは無であり、どこにもない」ものであるとハイデガーはいう。しかし、それは無であるからこそ、むしろ世界全般であるとも言える。「不安が臨んでいるものは世界そのものである」とハイデガーは述べ、不安の対象が「無である」ということは世界の不在を意味するものではなく、むしろ世界が世界性において根源的に私たちに迫ってくる事態を表しているという。

それは確実に「そこ」にあるのに、どこにもない。それが「不安」の本質的な様態であり、それはどこにもないがゆえに、世界そのものとして私たちに迫ってくる。だからこそ、「不安」は私たちを存在の根源的な意味の前に連れ戻すような働きをするとハイデガーは言う。このことにはキルケゴールも気づいており、彼は「不安」に関する哲学的考察を通して人間存在を深く見つめたのである。



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