「しょせんすべては小さなこと」:哲学の源泉としてのニヒリズム——永井均氏『哲学の密かな闘い』より
永井均(ながい ひとし、1951 - )氏は、日本の哲学者・倫理学者。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得。専攻は哲学・倫理学。千葉大学教授などを経て、現在、日本大学文理学部哲学科教授。永井氏に関する以前の記事「永井均氏の『転校生とブラック・ジャック』から考える独在論」も参照のこと。
永井氏が哲学をする根底にはニヒリズムがあるという。彼の定義するニヒリズムとは「それを信じて生きるべき究極の価値のようなものは存在しないという考え方や生き方」のことである。そうしたニヒリズムの事実を受け入れることができずに、何らかの価値を捏造してしまうこともまた、ニヒリズムの変形にすぎないと考える(これはニーチェの主張である)。ニヒリストだからこそ、価値と本性を根底から疑うことができる。本能的にこの「疑うことができる」というチャンスを生かしたいと感じてしまうような人でなければ、そもそも「ものを考え始める」ことなどできはしない。それこそが哲学するということの出発点だと、永井氏は論じる。
永井氏は隠れたベストセラー『小さいことにくよくよするな!』(リチャード・カールソン著)という本を例に挙げ、これは「しょせんすべては小さなこと」を主張する本であるが、つまりは、ニヒリズムが人生を救うということを主張する本だとする。つまり人はニヒリズムを求める傾向もあるのである。しかし、人は自分がニヒリストであっても、自分を治療する医師や飛行機のパイロットにはニヒリストでいてほしくはない。ここにあるのは三項対立である。第一項は「しょせん、すべては小さなこと」、第二項は「これは生きる力になる」、第三項は「他者に対する道徳的配慮」である。これらは一種の「ニヒリズム的円環(nihilisitic circle)」をなしている。この円環の発見者はニーチェである。ニーチェがニヒリズムの概念を独自の仕方で拡張したとき、彼はこの円環を逆向きにたどって、すべてが第一項から始まり、人生に意味を与えることが道徳的価値の自立に帰結するさまを描いた。彼はそこから引き返して、人生に意味を求め続けるでもなく、人生が無意味だと落胆するでもなく、意味の求め方そのものの方向転換を示唆し、いわばその無意味さこそが意味そのものであることを示したのである(つまり、ニヒリズムに対するニヒリズム的解決!)。
同様に、永井氏はソクラテスの哲学の営みにも根底にはニヒリズムがあったと主張する。プラトンは、ソクラテスが「大切なのは(ただ)生きることではなく、よく生きることだ」と言ったと伝える。プラトンはその「善きもの」をイデアとして求めたわけであるが、永井氏によればプラトンはソクラテスを見誤ったと考える。プラトンの愛知(フィソロフィア)の営みの源泉はニヒリズムであったのだという。それは「何が善きものであるか」を考える営みであり、「何か善きものを求める」営みではなかったというわけである。ソクラテスは、対話によって相手が知っていると思い込んでいることが実は無根拠であり、彼らは実は知ってはいないということを示した。その力の源泉はニヒリスティッシュなものであり、つまりそれは「無いことの力」なのだという。そして、これこそが哲学者の燃料である。哲学は、ただ「何かが無い」ということだけを燃料にして燃える高次の、あるいは逆転したあり方であるという。
世の中で価値あるとされているすべてを無と見る視点に立つこと、立てること、ただそれだけが哲学の意義なのだと、永井氏は主張する。「ニヒリズムとしての哲学」を主張する永井氏の根本命題である。そして、それは哲学することの目的にもかかわる。例えば、自動車教習所に通う目的ははじめから明らかである。それは運転免許を取ること(自動車の運転ができるようになること)である。これに対して、そもそも哲学をすることが何を実現するのかは、哲学をする前には、あるいは哲学をすることの外からは、絶対にわからないという。哲学の意味は哲学のなかにしかないから、哲学の外にいる人に哲学の意義や価値を説明することはできない。そんな意義や価値はないからである。哲学の力は、「しょせんすべては小さなことだ」という事実をなぜだか根底において認めてしまった人が、そのことを力とする逆向きのエネルギーなのである。だから哲学は、自分自身が最も強く献身しているものの無を最も深く知ることができる、根源的にニヒリスティッシュな文化であり、生の根底を掘り崩そうとする破壊的な文化であると、永井氏は主張するのである。
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