見出し画像

死の長所と短所について——エーコ『歴史が後ずさりするとき』を読む

このため、哲学を生業とする者は死をわれわれの通常の限界として受け入れているし、ハイデッガーをまつまでもなく、人は(少なくとも「考える」人は)死ぬために生きていると主張することができた。今私は「考える人」と言ったが、それは哲学的に考える人ということだ。なぜならば、教養のある人も含めた多くの人が、誰か他の人が死について(しかも彼ら自身の死につてではないのに)口にすると厄払いの仕草をすることを私は知っているからだ。哲学者は違う。哲学者は死ななければならないことが分かっているし、その死を待ちながら、自分の人生を活動的に送っているのだ。超自然的な生を信じる者は平静に死を待つ。しかしエピクロスの教えのように、死を迎えたとき死について心配することはない。なぜならそのときわれわれはもはやそこにいないから、と考える者も、同じように平静に死を待つことができるのだ。
もちろん、誰もが(哲学者も含めて)苦しまずに死を迎えたいと望んでいる。生き物は本能的に苦痛を好まないからだ。ある人は気づくことなく死を迎えたいと望み、ある人は臨終のときへとゆっくりと意識しつつ近づくことを望み、また、ある人は自分の死ぬ日を決めることを選ぶ。しかしこれらは心理的な細部であって、核心の問題は死の不可避性であり、哲学的な姿勢とは死への準備をすることなのだ。

ウンベルト・エーコ『歴史が後ずさりするとき:熱い戦争とメディア』岩波書店, 2021. p.431.

イタリアの思想家・作家ウンベルト・エーコの著作『歴史が後ずさりするとき』(2006年)よりの引用。エーコについての過去記事「はじめにことばありき—エーコの『薔薇の名前』を読む」、「カフカをどう読むか——エーコの『開かれた作品』より」も参照のこと。本書は、エーコが2000年から2005年にかけて発表されたエッセイ、論文、講演などをまとめたものである。

本書の最後を飾るエッセイが「死の長所と短所について」である。エーコは、哲学者とは「すべての人間は死をまぬがれない」ことを分かっている者であるという。私たちはふだん死ぬことを本能的に忌避してい生きている。頭では自分がいずれ死ぬことを分かっているとしても、それをまともに考えたくないと思うものである。しかし、哲学者は違う。哲学者は自分が死すべき存在ということを分かっていながら、なおかつ、その死を待ちながら、自分の人生を活動的に送っているのだ。

誰もが苦しまずに死を迎えたいと望んでいる。それは哲学者とて同じことである。ある人は気づくことなく死を迎えたいと望み、ある人は意識を保ちながらゆっくりとそれに近づきたいと願う。しかしそれは心理的な細部であって、核心の問題は、死の「不可避性」である。哲学的な姿勢とは、その死の不可避性を充分に理解し、なおかつ、それへの準備をすることなのだとエーコはいう。

しかしどのようにしたら、死を安らかに迎えることができるのだろうか。あるいは哲学的に死の不可避性について理解することができるのだろうか。エーコは、死には長所と短所があることを認める。「死には何かしら不愉快な要素があると哲学者も認めざるを得ない」とエーコはいう。つまり、死の短所からまずは考察を進める。死ぬ瞬間に、自分が生涯かけて積み上げてきた知識や知恵、経験と洞察を捨て去るのは、確かに苦痛なことである。それは、まるでアレクサンドリアの図書館を炎上させること、ルーヴルを破壊すること、美しく豊かで叡智のつまったアトランティスを海中に沈ませることと同じだ。私たちは、そのような悲しさに対して、活動することで対抗する。例えば、執筆する、絵を描く、町を建設する。しかし、自分の考えたことや感じたことをすべて伝達することは不可能である。それはかりに自分がプラトンやカントやアインシュタインであったとしてもそうである。例えば、愛する人の顔を見て覚えた感動、夕焼けを前にして受けた啓示……。

では逆に死の利点とは何だろうか。それは、例えば私たちが不死を獲得した場合を考えてみるとよいとエーコはいう。とても長い、場合によっては無限の人生がもし可能だったとしたら、どうなるだろうか。そのとき私たちには長い長い老後の時代が待っている。私の親愛なる人たち、私自身の子ども、私自身の孫が自分のまわりから徐々に去っていく。この長い老後生活にともなうであろう苦悩やノスタルジーは耐えられないものとなるだろう。もし不死の状態にいたるのが私だけではなくて、他の人も同様になるとしても、苦悩が終わることはないとエーコはいう。たとえば、人類がみな1000歳の寿命を得たとしよう。そのとき、世界はこの「超高齢者」たちで過密状態となる。この超高齢人口が新しい世代から生きる場所を奪うだけでなく、すさまじい「生存競争」に陥って、私の子孫が私の死を願わずにいられない状態になるだろう。

「死ぬことによって私の積んできた経験の宝が失われてしまうと考えるときに襲ってくる悲しさは、生き残ったら、このような耐え難い、色あせた、たぶんカビの生えた経験を不快に感じることになるかもしれない、と考えたときの悲しさと類似しているのではないか」とエーコはいう。それでも、哲学者は「死の不可避性」についてじっくりと考え、それに対して少なくとも充分に理解している存在であるべきである。そこから平静な死の迎え方の糸口が見つかるだろうとエーコはいうのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?