カントはなぜかくも難しいのか——中島義道氏の『カントの読み方』より
イマヌエル・カント(Immanuel Kant、1724 - 1804)は、プロイセン王国の哲学者であり、ケーニヒスベルク大学の哲学教授である。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらした。
カントは難解として知られる。それはカントの原書を読んだ人なら誰もが知っている。まさに「ちんぷんかんぷん」なのである。本書『カントの読み方』では、カント研究者の中島義道氏が、まずカントはなぜかくも難しいのか、どのようにすれば「読める」ようになるのかのヒントを提供してくれている。自分が書いたものが難しいことをカントも自覚していた。そして、なぜそのようになったのかというと、まず彼はラテン語で文章を考え、それをドイツ語に「翻訳」するように書いていったということが挙げられる。つまり、ドイツ人がドイツ語でカントを読んでも非常に難しいのである。それは文章の論理構造がラテン語的であるからなのだ。
さらに私たち日本人にとっては、もう一つの難しさが横たわっている。「翻訳」の壁である。明治の知識人たちが一生懸命に哲学用語の翻訳語を作ってくれたからこそ、私たちはデカルトやカントの哲学を日本語で学ぶことができるのであるが、それがために、さらなる誤解や誤読を生むことになる。例を挙げると、「Subjekt(英語ではsubject)」という用語である。これは普通「主観」と翻訳される。しかし、これは文法的には「主語」という意味も持っている。しかし、普通のカントの翻訳では「主観」としか訳されていない。そこに問題があると中島氏は述べる。「Subjekt」を「主観」と言う意味と「主語」という意味の二重性で読み解いていくと、カントは非常に分かりやすくなる。
例えば、「私とは何か」という自我論の問いを考えるとき、カントはSubjektとしての「私」に注目した。このとき「主観」としての「私」に注目したと考えるよりは、文法的な意味での「主語」としての「私」のはたらきに注目したと考えたほうが分かりやすいのである。例えばカントは「論理的主観」と「実在的主観」ということを述べる。前者は「論理的主語」と言い替えたほうが理解がしやすくなる。何か実体としてのあるものとしての「私」ではなく、文法的な主語のように内容空虚な概念としての「私」のことである。後者の「実在的主観」は普通の心理学で考えるような実体としての「私」のことを指している。
しかし、哲学者の文章そのものを読まずに、その解説書や、簡単なまとめサイトみたいなものを読んで分かった気になるのは危険な兆候である。カントに関しては膨大な解説書、解説書の解説書、解説の図式化などが多く出されている。そしてそれを読んで分かったつもりになり、疑問を抱かない。これは「哲学をする」ということの真逆であり、カント自身が死にものぐるいで格闘したその思考の軌跡を追うことにはならない。カントを読みながら、そのつど疑問を抱いたり、あたり前と考えるのではなく、常識に反したことがあれば「ヘンだ」と考えることが大事だと中島氏は強調する。「カント自身に向けて批判をぶつけてこそ、彼の批判的精神を受け継ぐもの」だというわけである。
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