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「実存は本質に先立つ」——サルトルの1945年10月の講演より

私の代表する無神論的実存主義はいっそう論旨が一貫している。たとえ神が存在しなくても、実存が本質に先立つところの存在、なんらかの概念によって定義されうる以前に実存している存在が少なくとも一つある。その存在はすなわち人間、ハイデッガーのいう人間的現実である、と無神論的実存主義は宣言するのである。実存が本質に先立つとは、この場合何を意味するのか。それは、人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるものだということを意味するのである。実存主義の考える人間が定義不可能であるのは、人間は最初は何ものでもないからである。人間はあとになってはじめて人間になるのであり、人間はみずからがつくったところのものになるのである。

J.P.サルトル『実存主義とは何か』人文書院, 1955. p.41-42

サルトルが語った言葉で最も有名なものの一つである「実存は本質に先立つ」(仏: l'existence précède l'essence)。戦後すぐの1945年10月にサルトルがパリのクラブ・マントナンで行なった講演「実存主義はヒューマニズムであるか」において最初にこの概念が提起され、実存主義における基礎的な観念・概念となった。サルトルの妻シモーヌ・ド・ボーヴォワールはこの考えを基に、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という言葉を残した(今の時代においては、ボーヴォワールの言葉のほうがめちゃくちゃかっこいいですね)。

講演では、この「実存は本質に先立つ」の思想のあとに、アンガージュマンや主体性といったことが語られる。第二次大戦後、人々が打ちひしがれ、世界が荒廃していたときに、このサルトルの実存主義宣言とアンガージュマンの思想が人々の心に希望を灯したことは想像に難くない。

この講演が行われたクラブ・マントナンは超満員の聴衆に埋め尽くされ、新聞各紙は大きなページで彼の講演会風景にあてたという。一知識人の講演が(しかも哲学者の言葉が)これだけ多くの人々に影響を与え、メディアをにぎわすということは現代ではあまり考えられない。時代的な状況というものがそうさせたということもあるだろう。しかし、実存主義哲学においてサルトルが残した功績というのも、ヤスパース、ハイデガー、メルロ=ポンティに劣らずに大きなものであるということも間違いない。

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