見出し画像

ブッダの幸福論——『スッタニパータ』より

四、こよなき幸せ
わたくしが聞いたところによると、あるとき尊き師(ブッダ)はサーヴァッティー市のジェータ林、〈孤独な人々に食を給する長者〉の園におられた。そのとき一人の容色麗しい神が、夜半を過ぎたころジェータ林を隈なく照らして、師のもとに近づいた。そうして師に礼して傍らに立った。そうしてその神は、師に詩を以て呼びかけた。
二五八 「多くの神々と人間とは、幸福を望み、幸せを思っています。最上の幸福を説いてください。」
二五九 諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人々を尊敬すること、これがこよなき幸せである。
(中略)
二六四 悪をやめ、悪を離れ、飲酒をつつしみ、徳行をゆるがせにしないこと、これがこよなき幸せである。
二六五 尊敬と謙と満足と感謝と(適当な)時に教えを聞くこと、これがこよなき幸せである。
二六七 修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎ(ニルヴァーナ)を体得すること、これがこよなき幸せである。
二六八 世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること、これがこよなき幸せである。
二六九 これらのことを行うならば、いかなることに関しても敗れることがない。あらゆることについて幸福に達する。これがかれらにとってこよなき幸せである。

中村 元『ブッダのことば-スッタニパータ』岩波文庫,  株式会社 岩波書店. Kindle 版.

私たちはどのように生きたらいいのか、ということを教えてくれるものが仏教であるが、では仏教は私たちにとって〈幸福〉とはどんなものと教えているのであろうか。この短い一節は、〈人生の幸福とは何か〉をまとめて述べている。いわば釈尊の幸福論である。

幸せ(magala)とは人に成功繁栄をもたらす祝福願望のことばをいう。この一連の詩句は、「大いなる幸せを説いた経」(Mahāmagala-sutta)と呼ばれ、南アジアではよく読誦されているという。

「愚者に親しまないで賢者に親しむ」ということであるが、人間の理に気づかない人が愚者なのであり、理を知って体得している人が賢者なのである。金けだけはうまくても、自分のもっている財産をふやすことに々として夜も安眠できないというような人は、いくら頭がよくても愚者であるといわねばならない。また、知識に乏しく、計算や才覚が下手でも、心の安住している人は賢者なのである。

「感謝(kataññutā)」の語義は「他人から為されたことを感じ知る」ということで、漢訳では「知恩」とも訳される。それは、お互いに精神的な喜びを与えあうものである。どこの国の人にもこの気持ちは共通であり、韓国語では「カムサ」と言い"感謝"の発音である。ベトナム語だと「カンノン」と言うが、これも"感恩"の意である。

「安らぎを体得すること」は、原文では「ニルヴァーナ(涅槃)」を体得すること(nibbāna-sacchikiriyā)となっている。世俗の生活をしている人が、そのままでニルヴァーナを体得できるかどうかということは、原始仏教においての大きな問題であったが、『スッタニパータ』のこの一連の詩句からみると、世俗の人が出家してニルヴァーナを証するのではなくて、世俗の生活のままでニルヴァーナに達しうると考えていたことがわかる。

「世俗のことがら(lokadhammā)」とは、利得、不利得、名声、不名声、賞讃、譏り、楽、苦の八つをいう。「世俗のことがらに触れてもその人の心が動揺せず」ということは、志を固くもって誘惑に負けないことである。

原文は詩句のため韻律の関係もあり、論理的に筋道たてて述べられているわけではないという。ただ、幸福に喜び満ちあふれている心境がつぎからつぎへとほとばしっている。その喜びの気持ち、ブッダの幸福論は、現在の私たちにも十分通用するものであると言える。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?