ブッダの幸福論——『スッタニパータ』より
私たちはどのように生きたらいいのか、ということを教えてくれるものが仏教であるが、では仏教は私たちにとって〈幸福〉とはどんなものと教えているのであろうか。この短い一節は、〈人生の幸福とは何か〉をまとめて述べている。いわば釈尊の幸福論である。
幸せ(magala)とは人に成功繁栄をもたらす祝福願望のことばをいう。この一連の詩句は、「大いなる幸せを説いた経」(Mahāmagala-sutta)と呼ばれ、南アジアではよく読誦されているという。
「愚者に親しまないで賢者に親しむ」ということであるが、人間の理に気づかない人が愚者なのであり、理を知って体得している人が賢者なのである。金けだけはうまくても、自分のもっている財産をふやすことに々として夜も安眠できないというような人は、いくら頭がよくても愚者であるといわねばならない。また、知識に乏しく、計算や才覚が下手でも、心の安住している人は賢者なのである。
「感謝(kataññutā)」の語義は「他人から為されたことを感じ知る」ということで、漢訳では「知恩」とも訳される。それは、お互いに精神的な喜びを与えあうものである。どこの国の人にもこの気持ちは共通であり、韓国語では「カムサ」と言い"感謝"の発音である。ベトナム語だと「カンノン」と言うが、これも"感恩"の意である。
「安らぎを体得すること」は、原文では「ニルヴァーナ(涅槃)」を体得すること(nibbāna-sacchikiriyā)となっている。世俗の生活をしている人が、そのままでニルヴァーナを体得できるかどうかということは、原始仏教においての大きな問題であったが、『スッタニパータ』のこの一連の詩句からみると、世俗の人が出家してニルヴァーナを証するのではなくて、世俗の生活のままでニルヴァーナに達しうると考えていたことがわかる。
「世俗のことがら(lokadhammā)」とは、利得、不利得、名声、不名声、賞讃、譏り、楽、苦の八つをいう。「世俗のことがらに触れてもその人の心が動揺せず」ということは、志を固くもって誘惑に負けないことである。
原文は詩句のため韻律の関係もあり、論理的に筋道たてて述べられているわけではないという。ただ、幸福に喜び満ちあふれている心境がつぎからつぎへとほとばしっている。その喜びの気持ち、ブッダの幸福論は、現在の私たちにも十分通用するものであると言える。
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