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「非還元の原理」を掲げノンモダニズムを生きる——ラトゥールの「アクターネットワーク論」

実際、彼の研究を初期から駆動してきた「非還元」という発想は、現代を生きる私たちにとって身近なものになりつつある。例えば、仕事や学業でどうにも結果がだせない人がいるとする。私たちは、その原因を、その人のもって生まれた気質や出身地や家庭環境や社会状況のせいにすることを好まないようになってきた。もちろんそれらの影響はあるだろうが、それらの要素を可能なかぎり対象化し操作可能な状態に置くことで、私たちは自らの生をデザインし、より豊かに自分らしく生きることができるだろう。こうした発想において、個々人の行為や属性を背後にあるなんらかの構造やシステムに還元して固定的に理解することは批判され、忌避される。(中略)
ラトゥールの研究は「いかなるものも、それ自体において、何か他のものに還元可能であることも還元不可能であることもない」という「非還元の原理」を中核として進められてきた。仕事や学業での挫折は個々人の背景をなす何らかの要素に固定的に還元することはできないが、それらの要素に一時的に還元することで対象化し、回復の道筋を描くことはできる。

久保明教『ブルーノ・ラトゥールの取説:アクターネットワーク論から存在様態探求へ』月曜社, 2019. p.23-24.

ブルーノ・ラトゥール(Bruno Latour、1947 - 2022)は、フランスの哲学者・人類学者・社会学者。専門は、科学社会学、科学人類学。アクターネットワーク論(Actor–network-theory:ANT)に代表される独自の科学社会学の構想によって知られる。パリ国立高等鉱業学校での教授経験を経て、2006年からパリ政治学院教授。

本書『ブルーノ・ラトゥールの取説』はブルーノ・ラトゥールの「アクターネットワーク論」(以下、ANT)を、モダニズム(近代の思考)、ポストモダニズムと異なる第三の思考である「ノンモダニズム」として位置付け、その基本的な部分を示す「取り扱い説明書(取説)」として書かれたものである。なぜ解説ではなく「取説」なのか。それは、すでに解説するという営みが、外在的に実在しているものを表象して言葉で説明することができるというモダニズム(近代)の思考の枠組みでの概念であり、ラトゥールの発想はそれを超えているからである。

ラトゥールの発想は、否定形の「ない」の連なりによって議論の基礎が作られていく。テクノロジーは人間が作りだした物理的な実体として捉えられるわけではなく、科学は客観的に自然を観察して事実や法則を発見する営為とみなされるわけではなく、社会が人間の集まりとして捉えられることもなく、近代について近代的な語彙をもとに分析されることもなく、「私たち」とは近代的な人間観によって限定されるものではない。ラトゥールの発想は「いかなるものも、それ自体において、何か他のものに還元可能であることも換言不可能であることもない」という「非還元の原理」を中核としている。

ANTでは、社会的、自然的世界のあらゆるもの(アクター)を、絶えず変化する作用(エージェンシー)のネットワークの結節点として扱う。このエージェンシー以外に、研究上の前提とされるものは何もない。ある社会的な現象に関わる要因はすべて同一のレベルにあり、アクターを外部から拘束する「社会的なもの」(社会的な力)が措定されることはない。

ANTがモダニズムとも、ポストモダニズムとも異なる第三の発想としての「ノンモダニズム」の発想であるとはどういうことか。まず第一の「モダニズム」の発想として、私たちが世界を適切に認識し適切に働きかけうることの根拠を、理性的な人間のあり方に求める考え方がある。例えば「知る」ということは、外側から客観的に対象を観察し、対象と正確に対応する表象を与えることであると考える。それに対して、第二の「ポストモダニズム」の発想は、世界と言明の間に何らかの人為的なフィルターを措定することによって、いかなる知識も絶対的ではないことを強調する。しかし、第三の「ノンモダニズム」の発想は、近代的な表象のあり方や、ポストモダンの構築主義的なあり方とも異なり、世界に外在する知識を、世界に内在する関係性の一時的な外観上の効果として捉えるものである。私たちが内在する異種混交的なアソシエーション、原理的に還元不可能な諸要素の原理的に制限のない結びつきの動態を通じて、さまざまな事実が生み出される。それらが外在的な知識に見えること自体は認められるが、それは特定の仕方で作られた関係性(慣習)の暫定的な効果にすぎない。

本書『ブルーノ・ラトゥールの取説』の著者の久保明教氏は、そうしたノンモダニズム的な世界の捉え方は、現代を生きる私たちにとって身近なものになりつつある、と述べる。例えば「ライフハック」や「拡張現実」や「自己分析」といった言葉の広まりが示すように、生活(Life)や現実(Reality)や自己(Self)は、もはや何らかの必要性や階級や構造にあらかじめ規定されるものではなく、絶えず対象化され、分析され、拡張されうるものとみなされつつあるからである。「生とは所与の要素に還元されるものではなく、自らデザインしていくものである」という現在一般的になりつつある発想に対して、ラトゥールの議論はそれを学問的に探求するものとなりうるし、そうした発想をともなう営為の限界や問題点を批判的に検討するうえで有効な道具ともなりうる、と久保氏は主張するのである。

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