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デカルトのコギト命題に潜む「隠された前提」——スピノザによる指摘

その矛盾とは次のようなものだ。「私は考える、故に私は存在する」は第一真理であって、これはいかなる命題も前提していないはずである。だがよく見てみると、結論を導くための「故に」という接続詞を有し、それによって二つの節——「私は考える」と「私は存在する」——を接続するこの命題は、ある別の命題を前提していることが分かる。たとえば、「考えるためには存在しなければならない」とか「考えるものは存在している」といった前提である。  
スピノザはこのことを、大前提の隠された三段論法という言い方で説明している。三段論法とは、「全ての人間は死ぬ」(大前提)、「ところでソクラテスは人間である」(小前提)、「故にソクラテスは死ぬ」(結論)のような論法のことである。スピノザはつまり、コギト命題は実際には、「考えるためには存在しなければならない」(大前提)、「ところで私は考えている」(小前提)、「故に私は存在している」(結論)という三段論法であるのに、最初の大前提が省略されているのではないかと指摘しているのである。もしそうだとしたら大変なことになる。この大前提がコギト命題に先行していることになり、コギト命題はすべての認識の基礎である第一真理ではなくなる。デカルト哲学は崩壊してしまう。

國分功一郎『スピノザ 読む人の肖像』(岩波新書) (p.41). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

スピノザの『デカルトの哲学原理』によると、デカルトの「私は考える、故に私は存在する(Cogito, ergo sum)」という「コギト命題」には、隠された前提が存在する。デカルトは、この命題こそは、一切のものがその上に構築されるべき第一の真理とした。しかし、スピノザは、デカルト哲学における根本的な矛盾を指摘する。

その矛盾とは、「私は考える、故に私は存在する」には、よく見てみると、この命題は、ある別の命題を前提にしていることだ。たとえば「考えるためには存在しなければならない」とか「考えるものは存在している」といった前提である。スピノザはこのことを「大前提の隠された三段論法」という言い方で説明している。

つまり、スピノザによると、コギト命題は実際には、「考えるためには存在しなければならない」(大前提)、「ところで私は考えている」(小前提)、「故に私は存在している」(結論)という三段論法であるのに、最初の大前提が省略されているというのである。この大前提がコギト命題に先行しているとなると、これは大変なことになる。なぜなら、コギト命題はすべての認識の基礎である第一真理されたのに、そうではないことになり、デカルト哲学全体が崩壊してしまうからである。

スピノザはこの難点に対して、読者の注意を向けつつも、どうすれば整合的にこの哲学の出発点を解釈できるだろうかと考えた。スピノザの解決法は以下の通りである。コギト命題は大前提の隠された三段論法にみえる。しかしそうではないとスピノザは考える。スピノザはコギト命題の大胆な書き換えを提案する。それは、「私は考える、故に私は存在する(Cogito, ergo sum)」という命題は、「私は考えつつ存在する(Ego sum cogitans)」という命題と意義を同じくする「単一命題」であると考えたのだ。

デカルトのように二つの節からなる命題である限り、その命題は大前提となる別の命題を必要としてしまう。だから、これを単一の説からなる単一命題と考えることで、三段論法と解釈される余地はなくなり、コギト命題は先の難点から救われることになる。これは根本的な転換を意味している。ここで、コギト命題は、単一命題となるとともに、「……だから存在している」という結論を導く証明する命題から、「……の状態で存在している」と描写する命題へとその役割を変更されているのだ。

スピノザ研究者の國分功一郎氏は、デカルトとスピノザの違いを、思想以前にある態度の違いであると説明する。デカルトは懐疑の泥沼に落ち込んでいたため、どうしても疑ってしまう自分を何とか説得し、確実と思えるものを信じ続けながら真理の探求を行うための出発点としてコギト命題を必要とした。つまりコギト命題を「説得する」機能として用いている。それに対して、スピノザはそもそも懐疑に囚われていない。スピノザからすれば、コギト命題が有する「説得機能」は、哲学的体系にとっての不純物に他ならない。スピノザは、それぞれの人は自分が考えながら存在していることを確実に知覚しているのであって、そのことは誰も疑いえないと述べている。そのようなことを疑う人はスピノザの議論の射程に入っていないということである。

デカルトとスピノザの哲学に対する「態度」の違いは、方法論的には分析的方法と総合的方法の違いともいうことができる。簡単にいうと、結果を分析あるいは分解して原因に至るのが分析的方法であり、これがデカルトがとった方法であった。それに対して、総合的方法は、原因あるいは原理を提示した上で、そこに諸々の結果を組み合わせて証明する方法であり、スピノザがとった方法である。

デカルトによれば、我々は原因についての認識を手にするよりも前に、まずは結果についての認識を有している。私は、私が存在していることの原因を知るよりも前に、自分が考えるものとして存在していることを知るからである。したがって、原因を明晰判明に認識するためには、まず、我々がその中にいるところの結果を明晰判明に認識しなければならいとデカルトは考えた。ここでは認識は結果から原因へと遡っている。
しかし、この方法がスピノザには不満だった。なぜならデカルトのとった分析的方法では先にみたように、隠された大前提があらわれてしまうからであり、結局は懐疑の泥沼から抜け出せないからである。スピノザは総合的方法を採用する。スピノザは「私は考える、故に私は存在する」という形の命題を斥けたので、「私は存在する」という命題から議論を始めることができた。スピノザは総合的方法こそが哲学の真の方法であると考えたわけである。スピノザは『デカルトの哲学原理』のあとに、彼の主著である『エチカ』を書くことになるが、そこにおいて彼の存在論と神の存在証明については、総合的方法(あるいは「幾何学的方法」)によって独自の哲学体系として提示されることになる。

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