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執着したということは執着しないことである——『金剛般若経」を読む

したがって、スプーティよ、偉大な菩薩は、あらゆる観念を取り除いて、無上の正しい悟りに対して発心しなければならない。色形に執着した心を起こしてはならない。——声、かおり、味、触れられるもの、心の対象に執着した心を起こしてはならない。——法に執着した心を起こしてはならない。法でないものに執着した心を起こしてはならない。何かに執着した心を起こしてはならない。
それはなぜかというと、およそ執着したということは、すなわち執着しなかったことだからである。それゆえ、如来は説かれた。『菩薩は、執着することなく布施をしなければならない。——色形、声、かおり、味、触れられるもの、心の対象に執着することなく、布施をしなければならない』と。

「金剛般若経」より. 長尾雅人編『世界の名著2 大乗仏教』中央公論社, 1967. p.80.(太字強調は筆者による)

ブッダの言葉である。ブッダとは「悟りを得た者」を意味するので、正確には釈迦と呼ばれた人の言葉である。「金剛般若経」は、正式名称:金剛般若波羅蜜経(こんごうはんにゃはらみつきょう、梵: Vajracchedikā-prajñāpāramitā Sūtra, ヴァジュラッチェーディカー・プラジュニャーパーラミター・スートラ)と言い、大乗仏教の般若経典の一つ。略して金剛経とも言う。3世紀以前の大乗仏教初期には既に成立していたと考えられている。他の般若経典と同じく「空」思想を説くものでありながら、「空」の語彙が一度も用いられていないことも特徴の一つである。

繰り返し述べられるのは「執着しないこと」である。色形に執着してはならない。心の対象に執着してはならない。あらゆる観念に執着してはならない。法(ダルマ)に執着してはならない。法でないものに執着してはならない。

執着しないことは仏教の教えでは重要ということは何となくわかる。それは、執着することで煩悩が芽生え、苦しみが生まれるからだ。しかし、金剛経において、ブッダは言う。なぜ、あらゆるものに執着してはならないか。それは「執着したということは、執着しなかったことだからである」と。かなり難解である。

でも、これはおそらく理屈を超えた真理なのではないか。似たような話で、アングリマーラの話を思い出す。以下のような話である。

ある時、釈迦は、コーサラ国サーヴァッティー(舎衛城)のアナータピンディカ園(祇園精舎)に滞在していた。これまで99人を殺し、殺した人の指を切り取って首飾りにしていた殺人鬼アングリマーラが、100人目に自分の母親に手をかけようとした時、釈迦が現れる。アングリマーラは釈迦に目を付け追いかけるも、釈迦が神通を発揮してなかなか追いつけない。「止まれ」と命令するアングリマーラに、釈迦は「おまえこそ怒りに動かされずに止まるべきだ」と指摘する。アングリマーラは愕然として跪き、出家を懇願する。釈迦はそれを受け入れ、アングリマーラは出家者となる。

Wikipedia アングリマーラ経より

殺人鬼アングリマーラがブッダに「止まれ!」と言う。そのとき、ブッダは「 私は止まっている。そなたこそ止まったらどうか」と告げる。アングリマーラは「お前は歩いているのに止まっていると言い、俺は立っているのに止まれという。一体、何を言うのか」と怒る。ブッダは静かに答える。「アングリマーラよ。 私は、生きとし生ける者に害心を起こす事なく、心は常に静かに立っている。しかるに、そなたの心は命ある者に対して害心を持ち、立ち止まる事なく苦しんでいるではないか。だから、私は立っているが、そなたは立っていないと言うのだ」と。

つまりブッダは、止まっているということは、止まっていないということであり、止まらないということは、すなわち止まっているということを言っている。執着しているということは、つまりは執着していないということである、ということに通じるかもしれない。このように仏の真理というのは、言語の水準で表現してしまうと一見矛盾したように見えてしまう。しかし、そこにこそ本質があるような気がしている。


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