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共に震える——哲学としての仏教から考える「共苦」

前に環境問題は他者問題であると述べたが、こうした根源的な自己了解にもとづいて、具体的な人間社会の組織・秩序を構想するとき、おそらくは単純な競争原理の採用にはならないであろう。他者は他己となり、他者の苦しみは自己の苦しみとなって、悲しみが根本に据えられてくるにちがいない。慈悲の悲、カルナーの語の意味は、「共に震える」であるという。共感・共苦を根本とした世界が、ここに成立してくる可能性があるのではないか。(中略)
そのように仏教は、現代社会の危機的な状況を克服していくという課題に対して、哲学としての深い「知」を有していればこそ、そこから多くの貢献をなしうることと思うのである。

竹村牧男『入門 哲学としての仏教』講談社現代新書, 2009. p.252.(太字強調は筆者による)

著者の竹村牧男(1948 - )氏は、日本の仏教学者。専攻は唯識、禅、大乗仏教思想。筑波大学名誉教授、東洋大学名誉教授。本書『入門 哲学としての仏教』では、宗教性を抜きにした哲学としての仏教を、存在について、言語について、心について、自然について、絶対者について、関係について、時間について、という内容で分かりやすく解説している。

非常に古いものであるというイメージと異なり、仏教の根本思想は、西洋哲学でいえばポストモダン哲学や現代哲学と通じるところがあり、大変斬新な哲学であるという。例えば、仏教の根本概念である「無我」や「縁起」という考えも、根本的には「実体(自己自身で自己の存在を支える、常住不変な存在)」を否定し、関係主義的立場に立つものだという。この関係主義的世界観こそ、今日のエコロジーの基盤であり、あるいはフラクタルや複雑系にも通じる考え方だと、竹村氏は述べる。

今日の環境問題やエコロジーとの関連で、竹村氏は「ディーブエコロジー」の考えを紹介する。これは、ノルウェーの哲学者アルネ・ネス(1912 - 2009)が提唱したものである。ネスは、ガンジーや禅の考えに深く影響を受けたという。彼は、ガンジーが政治運動を通じて意図したことは、実は政治的なものというより自己実現なのであり、その自己は狭い個我にとどまらない、究極的・偏在的な自己のことであると考えた。そこに、いわゆる近代的西洋的な自我を超える自己を見出している、と竹村氏は言う。ネスは「『すべてがつながり共に存在する』という生態学の原則は、自己についても、また他の生物、生態学、生命圏、そして長い歴史を持つ地球に対する自己の関係についてもあてはまる」と述べる。ネスは、自己と環境は二つのものではないと明瞭に認識しており、このことは、仏教の「自他不二」の考え方と、ほぼ共通したものであると竹村氏は述べる。

環境という他者も、自己と不可分のものであり、それは別個の存在ではなく、お互いにつながりながら共存していると考えるならば、「他者の苦しみは自己の苦しみとなって、悲しみが根本に据えられてくる」はずだと竹村氏は述べる。「慈悲」の「慈」はサンスクリット語の「マイトリー(maitrī)」に由来し「衆生に楽を与えたいという心」という意であり、「悲」は同様に「カルナー(karunā)」に由来し「人々の苦を抜きたいと願う心」を意味するという。さらに竹村氏は、カルナーの語源に「共に震える」という意味があるとし、共感・共苦というところに仏教の深い思想があるとする。

この「共に震える」で思い出すのが、水俣病を患う人びとを長年見つめてきた作家・石牟礼道子の「悶え加勢(かせ)」である。水俣では、村で誰かが病気になるとその人の家の前を行ったり来たりして共に悶え苦しむ「悶え神さん」という人が現れる。石牟礼は、苦しみを抱える人に寄り添い、共に苦しむ人の行為を「悶え加勢する」と表現した。これは仏教の慈悲の心・共苦そのものであろう。共に震え、共に悶えること。共苦・共感の心は、仏教の根本思想の一つであり、また現代の環境問題や格差問題などさまざまな分断を乗り越えるための方策ともなるであろう。





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